雑記(1.16~22)
1月16日(土)
8時過ぎに起きて学校へ。
校門の入口に「コロナ禍はまだ終わっていないんだから、くれぐれも油断すんなよ」(意訳)と書かれた横断幕がかかっている。
昨日で期末試験が終了したこともあり、校門にはさっさと実家へと帰る学生さんが列をなしている。
離校・帰省の手続きをするためである。
今年は新型コロナの影響で、構内に入るにも出るにもいちいち手続きが必要なのだ。
めんどくさいが、状況が状況なので仕方がない。
とりあえず、3月に新学期が始まるまで、しばらくキャンパスはひっそりすることになる。
事務室に行く。
コーヒーを淹れ、勉強をする。
授業があるときにはなかなかじっくりと勉強できないからである。
嬉しい。
心底嬉しい。
これで24時間、好きなときに、好きな場所で、好きなもの・好きなことを、好きなように勉強できるからである。
これは学生のときにはわからなかった幸せである。
だから、学生さんが「はあ? なんで冬休み早々勉強してるんだよ」という困惑顔をするのは当然なのである。
私だって働き始めて気づいたんだもの。
学生さんのなかには「教師は休みが多いから私も教師になりたい」という人がときどきいる。
あのね、教師に休みが多いのは好きなだけ勉強するためなの。
自分が学ばない人間がどうして人“を”教えられようか(人“に”じゃないよ)。
そこを誤解しないように。
勉強嫌いが教師になると、その人にとっても学生にとっても悲劇だからさ。
閑話休題。
私の長期休暇の過ごし方はいつも同じである。
朝、自然に目が覚める。
いそいそと身支度をして大学に行く。
まずはお湯を沸かし、コーヒーを挽いて粉にして、大きなマグカップいっぱいに熱々のブラックコーヒーを作る。
机に向かう。
パソコンの電源をいれ、ペンと紙を準備する。
予定も計画もない。
とりあえず、なんてなく、ぽっと頭に浮かんだ自分の興味あることから手元に引き寄せてみる。
すると、そこには自分には「わからない」ことがある。
「わからない」はたいてい「知らない」とセットなので(そうじゃないときもあるが)、調べ物をしたり、沈思黙考したり、自分の考えをメモしたりする。
しばらく「うんうん」唸る。
そうしてしばらく唸っているうちに、私の頭のなかで、私の頭のなかのドアを、私の頭のなかの誰かが、“トントン”とノックするのである。
で、その誰かは私が返事もしないうちに勝手にドアを開けて部屋に入ってくる。
“ガチャ”「よっ!」って。
それが「わかった」瞬間である。
「わかった」瞬間はいつも突然訪れる。
その瞬間がとても楽しいのである。
あまりに楽しすぎて、ひとりで「おお、俺って天才じゃね?」と呟く(もちろん勘違いなのだが)。
しかし、ふと気づく。
この「わかった」は新たな「わからない」と手をつないで登場したのである。
この新たな「わからない」は最初の「わからない」とは分野も種類も違う。
だから、さっきとは違うところで調べ物をして、さっきとは違うテーマについて沈思黙考して、さっきとはぜんぜん違う文体でメモをとる。
そしたら、また「わかった」が“ガチャ”っとやって来る。
そしてその「わかった」は新たな「わからない」と(以下略)。
そうしているうちに気づけばもう昼過ぎ。
「そういえば朝から何も食べてなかったな」と気づく。
冷静になって机の上を見てみると、テーマも分野も難易度も異なる文献が散乱している。
パソコンのディスプレイには、種類もジャンルも異なるwebページが無秩序に開かれている。
めちゃくちゃである。
しかし、その「散乱」「無秩序」「めちゃくちゃ」こそが、つまり一見バラバラに点在する「わかった」を結んだ線こそが、私が「わかる」ために辿った軌跡なのである。
それはたしかにぐにゃぐにゃと紆余曲折しているが、自分の足で導き出した「わかった」の道なのである。
自分の足で歩いてきたわけだから、引き返すことができる。
まるで光る石を拾い拾い森を抜けるヘンゼルとグレーテルのように、「わかった」と「わかった」を結びつけながら、さっき辿ってきた道を引き返す。
そしてまた逆向きに辿りなおす。
これを何度も何度も繰り返すうちに、点在する「わかった」は「わかる」という線になる。
最初は曲線だったり歪な線だったりするが、それでも「わかる」には違いない。
あとは、その道のりをどんどん短く・まっすぐする訓練と(ロジックの構築)、そこで見えた風景を別のイメージに置き換える訓練を積むだけである(メタファーの洗練)。
この経験を積めば積むほど、「わかった」ものについて簡潔な説明ができるようになるし、あえて回りくどい説明をすることができるようになる。
自由自在である。
「わかっている」とはそういうことである。
ね。
これってまさに「学び」や「わかる」についての、私なりの回りくどい説明でしょ?
あら、気づけばコーヒーが冷めちゃってるわ(まだ一口も飲んでいないのに)。
ま、いっか。
私は今年34になる。
教師になって8年目である。
しかし、未だに「なんで勉強するのか」わからない。
少しは「わかっている」。しかし、少ししか「わかっていない」のである。
その少しの範囲で、という限定をつけたうえで、ひとつだけ確信を持って言えることがある。
それは「学ぶのは楽しい」ということである。
私のこの楽しさだけは説明する必要などない。
「楽しい」は理屈ではないからである。
単純に「楽しい」と感じるから「楽しい」のである。
ああ、勉強って楽しいな。
この日勉強したのは日本語の「なんといっても」について。
学生さんの作文でときどき違和感を覚える「なんといっても」を見かけるので気になっていたのである。
たとえば、「本を読む目的は人それぞれだ。なんといっても読書には意味がある」。
この「なんといっても」はおかしい。
私だったら「いずれにしても」を使う。
なぜこのような「なんといっても」が出てくるのか。
わからない。
とりあえず、中国の大手検索エンジン“百度”を使って「なんといっても」を調べてみる。
すると、百度が提供している機械翻訳サービスの結果がトップに表示される。
ああ、なるほど。
頭の片隅にずっと引っかかっていた疑問の原因が、やっとわかった。
学生さんの「なんといっても」って、中国語の“无论怎么说”“不管怎么说”の直訳だったのである。
たしかに直訳すれば「なんといっても」で正しい。
けれども、意味や用法から見ると問題がある。
というのも、中国語の“无论怎么说”“不管怎么说”が使われる場面は「なんといっても」より幅広いからである。
例文で確認してみよう。
(例1)无论怎么说先做了再说。/とにかく、まずはやってみてから言いなさい。
(例2)不管怎么说,恋爱是每个人与生俱来的权利。/誰がなんと言おうと、恋をすることは人が生まれながらに持つ権利である。
(例3)人活一辈子,无论怎么说家人才是最重要的。/人生を送るうえで重要なものは、なんといっても家族だ。
ほらね。
文意に応じて「とにかく」「誰がなんと言おうと」「なんといっても」などなどと訳し分けたほうが日本語らしくなる。
もし(例1)(例2)を「なんといっても」で訳してしまうと少し違和感を覚える。
というのも、日本語の「なんといっても」は、複数の候補からひとつを取り上げて限定・強調するという独自の役割を担った表現だからである。
だから(例3)はしっくりくるのである。
つまり、「人生を送るうえで重要なもの」という命題の答えとして当てはまりうるさまざまな候補(やりがいとかお金とか地位とか自由とか)のなかから答えを「家族」というひとつに限定するために「なんといっても」が使われているのである。
ほかの例で確認してみよう。
(例4)家族みんなで楽しむならいろいろあるけれど、なんといってもBBQがいちばんだね。
(例5)日本の国民食といえば、なんといってもカレーでしょう。もちろん、寿司やラーメンもいいですが、寿司は高いしラーメンは飽きやすいです。その点、カレーは給食にも出る庶民的な食べ物だし、カレードリアやカレーうどんなどバリエーションは豊富です。
このように、複雑の候補から1つを選んで限定・強調しながら何かを述べるときに「なんといっても」は使われるのである。
先に挙げた「本を読む目的は人それぞれだ。なんといっても読書には意味がある」という誤用には「人それぞれ」という相対的な単語があるので、ひとつに限定・強調する「なんといっても」ではなく、ひっくるめて評価を下す「いずれにしても」のほうが正しいわけである。
ということで、中国語の“不管怎么说”“无论怎么说”をそのまま「なんといっても」と直訳して使わないように気を付けましょうね。
5時過ぎに勉強を切り上げて、同じく事務室でお仕事だったO主任の車で大学近くのレストランへ。
教科書の打ち合わせを兼ねた新年会である。
主審をお願いしているうちのS先生と安外のH先生、それにほか数名の方々とともに円卓を囲み、美食美酒を堪能する。
これは大豆ではなく落花生の「もやし」である。シャキシャキしてなかなか美味しい。
穏やかな歓談から始まり、やがて酔も手伝い話が弾み始め、気が付けば54度の白酒1本に赤ワイン1ボトル、それにビール数リットルが空く。
いくらなんでも飲み過ぎである。
最後の方は歓談というより友好的な喧騒に近かった。
もちろん私もその喧騒の一部である。
喉と頭が痛い。
12時過ぎに散会、帰宅。
あまりに眠いのでシャワーも浴びずにバタンキュー。
17日(日)
雲ひとつない晴天。
気温は3度前後。
昨夜飲んだこともあり、遅めの起床。
熱いシャワーをゆっくりと浴びて、近くの喫茶店へ。
追加で頼まれた原稿を書くためである。
しかし頭が働かない。
昨夜しこたま摂取したアルコールを分解するために血液が肝臓に持って行かれ脳が回っていないのであろうか。
コーヒーを呷って気合を入れるも、徐々に眠気が襲ってくる。
数時間粘ったものの、諦めて退散。
書けないときは書けない。
だって書きたくないんだもの。
そういうものである。
散歩をしながら帰宅。
早めに就寝。
18日(月)
昨日さぼった分を取り返すために早めに起床。
大学へ行く。
外国語学院へ向かう途中に、学生さんたちが学内の野良猫・野良犬用に設置した“ホテル”がある。
いつ見ても“利用客”はいないのだが、この日始めて “宿泊客”を見る。
残念ながら“チェックアウト”の瞬間は撮れなかったけれど、あきらかに中で一晩過ごしたんだと思う。
だって、気持ち良さそうに伸びをしながら出てきたんだもの。
「うーん…よく寝た」って感じの伸びをしながらさ。
事務室に行き、いつものコーヒーを淹れ、今日は仕事をする。
期末テストの採点である。
昼過ぎまでかりかりと赤ペンでチェックする。
13時を回るころにお腹がすいたので切り上げて食事へ。
軽く麺を食べたあと、近くの川を散歩。
おじさんたちが魚釣りに興じているのを眺めながらてくてく歩く。
大学に戻り18時まで採点を続けたあと、帰宅。
さっさと寝る。
19日(火)
この日も朝起きて、大学に行き、テストを採点して、気づけば夕方。
なんだか生活に“潤い”が欠けているような気がするので、大学南門近くの居酒屋へ行って焼き鳥をかじりビールを飲む。
この店はまさに「日本の居酒屋」って感じの店構えで、安くはないがそこそこ美味しい日本料理と日本のビールを出すので、私は半年に1度ほどふらっと足を運ぶのである。
店内は日本語でメニューが書かれた短冊だらけ(ところどころ間違いもある、縦書きなのに、たとえば「チーズ」の長音“│”が“ー”のままだったり)。
まずはジョッキで朝日を頼む。
一杯18元(約300円)なり。
久しく串物を食べていなかったので、「ねぎま」「砂ずり」「レバー」などはもちろん、「ちょうちん」や「もちチーズ」などの変わり種も含め、どんどん頼む。
満足。
春節が近づき賑やかさを増す街を散歩しながら家へと帰る。
20日(水)
7時半に起床。
大学へ。
事務室の窓から外を望むと、 空が灰色にくすんでいる。
スマホを見ると空気は中程度の汚染とある。
いつまでも空模様を気にしているわけにもいかないので、机に向かい採点作業。
13時半まで作業を続けたあとに食事へ。
最近行きつけの“羊肉汤”のお店へ。
中国語でいう“湯”とは「沸かした水」のことではなくて「スープ」のことである。
“羊肉汤”とは、羊の骨からとったスープを香辛料・香味野菜で風味づけし、羊肉や野菜とともに太めの春雨を泳がせた料理である。
羊は身体を温めるので、寒い時期にはぴったり。
満腹したので、いつもより長めの散歩。
“沿河道”を私立図書館に向かって少し歩く。
それにしても灰色である。
図書館の時計台が霞んで見える。
ライフジャケットを着たおじさんが乗った小舟がとことこと上流に向かっている(川面に浮かぶ葉やごみを拾う仕事なのだ)。
水辺の風景を見ていると、天気は晴れないが気持ちが落ち着く。
20分あまりぼおっとしたあと、大学に戻って作業再開。
18時まで頑張って切り上げる。
21日(木)
7時40分起床。
外は小雨。
肌寒い。
10時過ぎに大学へ。
相変わらず窓の外は灰色の世界。
期末テストの採点を続ける。
14時過ぎに昼食へ。
この日も“羊肉汤”のお店へ。
ただし、注文するのは“羊杂汤”
“杂”は常用漢字で書くと「雑」。
つまり、羊の臓物スープである。
固められた羊の血やらレバーやら胃やらがたっぷりと入っている。
羊の臭さが気になる方もいるかもしれないが、実際に食べてみるとそんなことはない。
うまし。
仕事に戻る。
18時で切り上げ、帰宅。
シャワーを浴び、ビーフィーター・ジンをちびちびやりながら、通算10回目になる『レオン』を見る。
家族を皆殺しにされたマチルダ(ナタリー・ポートマン)と彼女を匿うレオン(ジャン・レノ)がホテルにチェックインするあたりで睡魔に襲われ、寝落ち。
22日(金)
7時過ぎに起床。
今日も外は小雨。
昨日にもまして霞空。
窓の外を仕事へと向かう人たちが傘をさしている。
カップスープを一杯飲み、身支度をして、マスクとイヤフォンを装着し、外に出る。
10時過ぎに大学着。
午前いっぱいを使って期末テストの採点(大問4)を片付ける。
途中で学生さんから昨日の採点に関する問い合わせが来る。
この学生さんが答案に「『スマホをいじる』を中国語にしては“玩手机”だ」と書いていた箇所を私は減点したのである。
どこが間違いかというと、お分かりのとおり「しては」である。
この文は「中国語でいうと」という意味なのだから、「にすると」が正解である。
学生さんのお問い合わせは、「なんで『にしては』はダメなんですか?」というものである。
いわく「にしては」と「にしたら」の違いがわからないらしい。
なるほど。
「中国語でいうと」を「中国語にしたら」で表現しようとしたのね。
「中国語にすると」と比べると口語的だと思うけれど、意味は通っている。
で、「にしたら」と形がよく似ている「にしては」を間違って使っちゃったというわけだ。
「にしては」の意味はまったく違う。
「にしては」は中国語でいう“按……说来”である。
詳しく言えば、「にしては」とは、ある個別的主題について一般的評価と比較しながら判断・評価・説明する表現である。
例文で確認しよう。
例1:彼は年齢にしては背が高い。/按他的年龄说来,身量够高的。
例2:彼女は40歳にしては若く見える。/她看上去比四十岁年轻。
この例文の場合、「彼と同じ年代の一般身長」「40歳の女性の一般的外貌」という一般的評価を持ちだし、「彼」「彼女」という個別的主題を対比・比較させることで、それぞれ「背が高い」「若く見える」という判断・評価・説明をしているわけである。
学生さんの答案「『スマホをいじる』を中国語にしては“玩手机”だ」には、そのような意味合いが存在しない。
よって減点したのである。
それに、「中国語にしたら」という表現には他にも問題がある。
まず第一に、先に述べたように口語的な表現である。
第二に、「にしたら」には、自分とは異なる人物や集団などの立場・視点に立ちながら、何かを述べる働きがあるからだ(「にとっては」と同じような意味合いだが、「にしたら」の方が相手側に立っている語感がある)。
例3 :君のその言い方、彼にしたらたまったもんじゃないよ。
例4 :親心はときに、子どもにしたらうざったいだけである。
誤解を避けるためにも、「中国語にしたら」より「中国語にすると」もしくは「中国語でいうと」のほうが適切だ。
以上のようにお答えした。
すると、「先生は説明が上手ですね」「いま、完全に理解しました」とお褒めいただく。
嬉しい。
だって、それが教師という仕事の見せ場だもの。
調子に乗って、いろいろと説教をする。
せっかく褒めたのに説教をされたんじゃ、学生さんとしたら(←ほら、これ)たまったもんじゃないだろうが、そういう説教もあるのだと知る良い機会である。
ついでだからここに転載しておく。
いえいえ、ありがとう。
辞書の説明はあくまで辞書の説明、つまり他人の説明です。
もちろん、その内容は正しいんですよ。
けれども、結局は他人の言葉なんです。
他人の言葉だから、頭では理解ができても、身体ではなかなか受け入れにくい。
そこで使われているリズムや語意が自分の身体感覚に「しっくりこない」からです。
だから、他人の言葉をいくら暗記しても、すぐに忘れてしまう。
正確には「忘れた」のではなく(脳の中には残っています)、「自分なりに再現できない」だけなのです。
そこで、覚えた知識を身体を使って自分なりの言葉に変換する作業が大切になってきます。
私の場合、辞書の説明を読むだけではなく、それを実際に手を使って文章にすることで、自分なりに説明してみることにしています。
そうすると、リズムや語意が私の身体にぴったりくる説明となり、忘れにくくなるからです。
結果的に学生さんにも説明しやすくなる。
自分の身体に馴染んだ説明だから、いくらでも言い換えや例示が可能になる。
私にとって言葉を学ぶとは、そういう作業です。
Fさんにとって他人の説明はあくまで他人の説明です。
私が言っているのは、他人の説明が正しいとか間違っているとかいう正誤性の問題ではありません。
辞書や私の説明を聞いただけでは、Fさん自身で再現できる生きた知識にはならないということです。
一見すると効率が悪いように見えても、自分で手を動かして身体で考えるのって、じつはとても効率がいい勉強方法なのです。
なので、私の説明はあくまで一参考にして、自分なりの説明を考えてくださいね。
しつこいですが、もうひとつだけ。
今さっきFさんは「わかりました」と言いましたけれども、それはじつは脳の働きです。
つまり、脳が「わかった」と判断したから、君は「わかりました」と口にしたわけです。
しかし、Fさんはほんとうに「わかった」のでしょうか。
じつは脳にはぜったいに「わからない」ことがあります。
それは「自分は本当にわかったのかどうか」です。
他人の説明を聞いて「あーなるほど」と思ったけれど、家に帰って自分で説明しようとしたら「あれ、なんだったっけ?」という経験はありませんか?
それはつまり、他人の話を聴いて情報処理した脳が「なるほど」「わかった」と判断しただけで、じつは「わかっていなかった」ということです。
「本当にわかったかどうか」は、脳にはわからない。
「本当にわかったかどうか」をわかるのは、身体にしかできない仕事です。
つまり、実際に身体(口や手)を使って自分で説明してみれば、「本当にわかったかどうか」はすぐ答えが出るということです。
自分の口や手で説明できれば、それはほんとうに理解したということだし、できなければ頭で「わかった」と判断しただけだということです。
わかりますか?
なので、今日私の話を聞いて「あ、わかった」「なるほどね」と思ったことがあったならば、それをぜひ中国語で言葉にしてみてください。
それが身体で考えるという意味です。
最初は難しいし、面倒くさいけれども、何事も訓練と継続です。
頑張ってね。
おーなんと説教くさい教師だ(他人事)。
昼過ぎまで採点を続ける。
14時ぐらいに遅い昼食をとりに外へ。
ミスト状の雨が降るなか、最近行きつけのお店へ。
今日は気分を変えて麺を注文。
美味しい。
ネギたっぷりなのが嬉しい。
いつもの川沿いをぐるりとまわって大学へ戻り、18時まで採点。
結果をそれぞれの学生さんたちに送ったあと、帰宅。
昨夜に続き『レオン』を最後まで見る。
毎度のことだがラストでうるうる。
とはいえ今回印象に残ったところはそこではない。
序盤に描かれていた、レオンと彼に殺しの仕事を斡旋しているトニー(ダニー・アイエロ)の会話シーンである。
レオンに頼まれていた品(ライフル)を渡して「確認しろ」というトニーに「いや、信頼しているからいい」的なことを言うレオン。
それに対してトニーは「それはそれ、これはこれだ」みたいに諭す(なぜセリフがうろ覚えかというと英語音声・中国語字幕で見ていたからである)。
そうだよねとなぜか納得。
信頼とチェックは別物である。
「チェックするってことは、おめえ俺のことを信頼してないんだな」
そう考える人間はそもそも信頼に値しない人間である。
信頼に値する人間とは、「たとえお前が俺を信頼していたとしても、きちんと俺をチェックしろよ」と常に言える人間なのである。
ネタバレになるけれど、このトニーは結果的にレオンを売るわけだが、それでもギリギリのところまで努力した形跡がある(ボコボコに殴られたあとがあるし)。
「トニーは銀行より信頼できる」「預金残高はトニーの頭ん中にきちんと入っている」と自分で言っちゃうあたり、うさんくさいところもあるが、なかなか嫌いになれないキャラクターである。
それはそうと、この映画は主題歌の“Shape of my heart”もいい。
クラシックギターの柔らかい音色が映画のエンドと合わさって哀愁を誘う。
そういえば、先週末にボールエンドのナイロン弦を買ったんだった。
ボールエンド弦とは、弦の先端に丸いリングが設けてある弦のことであり、フォークギターやエレキギターに張るスチール弦はたいていボールエンド弦である。
エレキやフォークギターに弦を張るときは、このボールエンドをブリッジに通して固定したり、ブリッジ後方の穴に押し込んだりして弦を張るのである。
一方、クラシックギター(ガットギター)に張るナイロン弦にはボールエンドがついていないことが多い(ブリッジに結ぶようにして弦を張るから)。
私はナイロン弦の優しい音色は好きなのだが、クラギはネック幅が広いので弾きにくい。
かといってボールエンドがついていないクラギ用のナイロン弦はフォークギターには張れない。
ということで、フォークギターにナイロン弦を張るべく、先日買っておいたのである。せっかくなので弦を張り、ネットで調べた“Shape of my heart”のコードとにらめっこしつつ、ぽろぽろと指弾きしてみる。
うーん、いいね。
ナイロン弦は手触りも柔らかくていい。
スチール弦に比べると太いので、ネックが狭いフォークギターに張った場合、正確なフォームで押弦しないとしっかりと音がならないが、これはこれで練習になる。
おお、おもしろい。
そうこうしているうちに眠くなってきたので就寝。