日記(10.26~28)
10月26日(土)
9時起床。
シャワーを浴びて身支度をする。
途中でりんご(富士)を4つ買って大学へ。
一昨日は家でゴロゴロ、昨日は自転車で外をグルグルしたので、今日と明日は大学でバリバリお仕事をするのである。
というわけで10時に大学へ行き、のんびりとコーヒーをすすりながら日記の更新をしたあと、お仕事(O主任が編集している教科書の校正)を進める。
バリバリバリバリ……。
途中で副院長のZ先生がオフィスを覗いて、「土日なのに仕事ですか、偉いですね」と褒めてくれる。
もちろんご案内のとおり私は木・金と遊んでいたのだが、「いやあ、そんなことありませんよ」と頭を掻く。
我ながら小狡いやつである。
そんなこんなで昼過ぎまで集中して机仕事。
14時に挿絵を書いてくれるSさんとLさんが来る。
絵の構図や見せ方について、3人で話し合い共通認識を得るために、額を合わせてお話するのである。
「ハとガ」の違いや指示詞(こ、そ、あ)についてご説明する。
説明する中で面白いことに気づく。
それは、日本語の指示詞である「こ、そ、あ」は、一期一会的な「場」によって儚くも成り立ち消えるものではないか、ということである。
なんのこっちゃわかりにくいので、ちょっと長くなるが、以下に詳しく述べる。
ある状況におかれている話し手・書き手が、その立場から見えたり聞こえたりした物や事、場所などを指し示す言葉を指示詞という。英語で言えばThisとかThatとかですね。
一般的に指示詞という概念は、指示代名詞、指示形容詞、そして指示副詞からなる。
指示代名詞とは、日本語の「これ・それ・あれ」や英語の“this”“that”のように、指し示すものごとの代わりを務める語のことである。
指示形容詞とは、日本語の「この・その・あの・どの」のように、指し示すものごとを形容する働きを持つ語のことである。英語なら“this book”“that girl”のように“this”“that”がそのまま使えるし、“such stupid behavior”の“such”などもそうですね。
指示副詞とは、指し示すものごとのうしろに「する」や「なる」などの体言を伴う語であり、日本語で言うと「こう・そう・ああ・どう」などである。英語だとやっぱり“I hate you this much”(あんたのことがこれだけ嫌い)のように“this”“that”がそのまま使える。
細かいことは置いておくとして、日本人の皆さんならば当然ご存知のとおり、日本語の指示詞には「これ」とか「あっち」とか「そんな」とかいろいろあるわけだが、基本になるのは「こ・そ・あ」の3つの系である。
日本語の指示詞を説明する初級教科書では、
「『こ』は話し手の近く、『あ』は話し手と聞き手にとって遠く、『そ』は聞き手の近く」
という説明がよく見られる(今私の手元に有る中国語版初級『みんなの日本語』でもそう説明している)。
ほかに、
「『こ』は近距離、『そ』は中距離、『あ』は遠距離」
「こそあどは、それぞれ近称・中称・遠称・不定称」
という説明がされることもある。ネイティブである私たちの感覚からすれば、これは理解しやすいし、実際に手元にある公文式の中学生向け『国語文法』ではこちらの説明が紹介されている。
しかし、私が思うに、この説明では外国語学習者に対して「こ・そ・あ」の使い分けをする時に問題がある。
とくに「そ・あ」に関してである。
たとえば、AさんとBさんが電話で話しているときに、
A「昨日新しいデジカメ買ったんだよね」
という新たな話題の出現に対して、Bさんがネイティブならば普通、
B「へえ、それはどこで買ったの?」
と「そ」を使う。
しかし、「『あ』は遠距離」という説明で日本語の指示詞を覚えてしまった学習者は、
「電話でおしゃべりしているAさんにとってBさんが買ったデジカメは遠いところにあるから、ここは『あ』だな」
と理解してしまい、
B「へえ、あれはどこで買ったの?」
と誤用してしまうのである(私は実際にそういう事例を目にしたことが何度もある)。
近称・中称・遠称という視点は「そ・あ」に関して問題がある。
そもそも「そ・あ」の使い分けは中国語を母語とする学習者にとって難しい問題なのだ。なぜなら中国語の指示詞には、“这・那”という2つの系しか存在しないからである。
一般的に言えば、「“这”は『こ』、“那”は『そ・あ』」と理解しておけば問題はない(あとで述べるように、もちろん例外もある)。
つまり中国人学習者にとって“那”という単一の系で認識し指し示しているものが、外国語である日本語では『そ・あ』という別の系統で認識され、示されるわけである。
混乱するよね。
結果的に私の学生さんたちは『そ・あ』の使い分けに苦戦するのである。
「らりるれろ」で世界を音声的に分節している日本人が英語を習う際、LとRを使い分けるのに苦労するのと同じようなものかな。
それはさておき。
ところで、さっきのAさんとBさんとの会話を振り返ると、一言で指示詞といっても、実際には「現場指示」の指示詞と「文脈指示」の指示詞という二種存在していることがわかる。そして「近称・中称・遠称」という説明は前者には有効であるが後者の場面では外国人学習者にとってわかりにくくなってしまうのである。
「現場指示」とは、まさに今その現場にあるものを「ん、これ!」と指差すものである。よくある“This is a pen”なんて例文はまさに現場指示ですね。
対する「文脈指示」がなにかといえば、たとえば、私たちは記憶をたどりながら言葉を繰り出すときに、そこに登場する話題や情報などを指して「こ・そ・あ」を使うことがありますよね。前文の「そこに登場する」というセンテンスで使った「そこ」がそうだし。そして、この「そうだし」の「そう」もそうであるし、「この『そうだし』」の「この」もそうだし……無限ループだ、やめよう。
たとえば、
「昨日彼とレストランに行ったんだけどさ、このレストランがひどいのなんのって!」
の「この」は「文脈指示」である。
こうしてみると、先ほどのAさんBさんは違う「現場」にいながらも電話で話すことで文脈を共有しておしゃべりしているわけだから、ここでは「文脈指示」型の指示詞の使い方がなされているわけである。
こうして考えてみると、さきほど見た2種の「こ・そ・あ」の説明のうちでは、やはり「『こ』は話し手の近く、『あ』は話し手と聞き手にとって遠く、『そ』は聞き手の近く」という説明の方が適切であり広く応用が効く説明だと私は思う。
これなら「なんでBさんは遠く離れたAさんのデジカメに『そ』を使ったの?」という日本語学習者の素朴な疑問に対して答えられる。
なぜBさんが「それ(デジカメ)はどこでかったの?」と話し手である自分にとって遥か遠く離れた物体(デジカメ)に対して「そ」を使うかというと、デジカメは聞き手であるAさんの身辺にあるものだからである。
「『そ』は聞き手の近く」という説明の原則通りだね。
なお、これは私の勝手な素人考えであるので鵜呑みにしないでいただきたいが、ここで「そ」が使える背景にはもうひとつあるのではないだろうか。
つまり、本当にBさんはデジカメという物体にたいして「そ」を使ったのだろうか。
それよりも、Aさんが提示した「デジカメを買った」という不明瞭な話題に対して、つまり聞き手である自分にはまだ十分に伝達されておらず、したがってイメージ的にはAさんの手元に残っている話題に対して「そ」を使ったのではないか。
というのが私の考え方である。
わかりにくいな。
ようは、私の勝手な理解では、「そ」とは会話の流れの中で出てきた「既に存在を聞き手に対して提示済みではあるが、内容が十分に明らかになっていない(=聞き手の手元にまで至っていない)話題や情報」に対して、その存在を確認したり、問いかけたり、補足したりするときに使う場合もあるのである。
たとえば、
彼女「ねえ、赤ちゃんできちゃった」
彼氏「……そ、そうか」
における「そ」は、彼女から提示された新しい話題に対して、未だ十分には把握してはいないが、それでもその存在をとりあえずは認識し受け止めたことを示すための「そ」である(しかしなんちゅう例文だ)。
もし彼氏がこのあと彼女から情報を提供してもらい、この話題についてその場で十分に理解して自分に関する話題や情報だとみなした(=自分の手元に引き寄せた)ならば、
彼女「で、どうしよっか」
彼氏「これは重要なことだから、ひと晩考えさせてくれないかな」
と「こ」を使うのである。
で、「できちゃった」という話題がお互いに十分に理解され共有され、場面が変わったあとに(たとえば翌日とかに)なると、
彼女「あの話だけど、どうしようか」
彼氏「ああ、あれね」
と「あ」を使うのである。
さっきのデジカメの例文で言えば、もし1時間後にまた
Aさん「そうそう、デジカメ買ったんだよ」
となれば、
Bさん「それ、さっき言わなかったっけ」(知らないよ、私のカメラじゃねーし)
だろうし、一週間後にAさんが
Aさん「デジカメ買ったって話したっけ」
となれば、
Bさん「ああ、一週間前のあの話?」(シラネーヨ)
のようになるはずである。
さっきの「できちゃった」はふたりの「赤ちゃん」が話題なので、当然彼氏は「この」を使う(でないとクズ男である)。しかし、Aさんの「カメラ買った」は所詮Aさんの所有物に関する話題だから、Bさんが「この」を使うことはありえないのである(あるとすればBさんがAさんのカメラを盗んだり、Aさんと同じカメラを買ったりした場合だろう)。
ここまでは対して新鮮味もない説明である。
しかし、私がこうやってうだうだ考えつつ気づいたのは、日本語の「こ・そ・あ」の変遷は、非常に移り変わりやすい「場」の変化をもろにうけるのではないか、そしてここでいう「場」の変化とは、単に空間や時間が変化するというだけではなく、「場」を構成する人物の登場や退場により、瞬時に生じるのではないかということである(書き出して思ったが、当たり前なのことに気づいただけだね)。
たとえば、週末に買った新しいジージャン(byユニクロ)にご満悦の私が、月曜日の授業に喜び勇んでそれを着て参上し、開口一番、
「みてみて、この服、かっこいいでしょ!」
とはしゃいでいるとする(あくまで例えばですよ)。
学生さんたちはもちろん、
「わあ、その服かっこいいですね!先生にお似合いですよ」
とおべっかを言ってくれるだろう。しかし、私が休み時間に教室を離れたあと口々に
「ぷぷぷ、なにあの服。だっさー」
と悪口を楽しまれるはずである(たとえばですよ、うちの学生さんはいい子達ばっかりだし、そもそも私の服なんかに興味ない)。
私がふと抱いた疑問は、時間的にもそう経過しておらず(私の退出から悪口パーティまでせいぜい数秒~数分だろう)、空間的には全く変化していない(以上の会話がなされているのは同じ教室なのだから)にも関わらず、なぜ日本語では私の退出によってたちまち「その服」が「あの服」へと変化するのか、ということである。
中国語の場合、私が教室から退出しようがしまいが、ずっと“那件衣服”である。
(※10月31日追記 というのは私の間違いで、実際には中国語では「わあ、その服かっこいいですね!」の場合‘你这’となり、「ぷぷぷ、あの服」の場合“他那”となる。私の半端な中国語を伏して詫びたい。すみませんでした。
しかしここから分かるのは、中国語話者は「わあ、あなたのその服」を「わあ、あなたのこの服」とイメージしている、つまり「あなた」の立場に限りなく近づいて話しているということである。これは後に述べている「是这样子」「私からプレゼントを貰って母は嬉しい」問題と同根であるかもしれないので、今後考えていきます。)
根本的に変化したものはひとつしかない。
それは「場」の構成員である「私」の退場である。
つまり、私が消え去ったことが、「その」が「あの」へと変化する決定的な要因なのである。
これはつまり、日本語では、「場」を構成するメンバーがずっと同じならば、すでに共有された話題や情報に対していくらでも「そ」を使いつづけ、あるメンバーの辞去で「場」が変質した途端、これまで「そ」で指示されていた共有知識は旧情報となり「あ」で指示されるようになるということではないか。
とすると、日本語の指示詞において重要視されるのは時空以上に、そこにいる人間なのである。
英語だとどうだろう。
なんとなくだけれども、英語だとさっきの事例場合、指示代名詞ではなくて所有格(YourとかHisとか)を使って表現しそうなきがする。
まあ、それはわからないから置いておくとして。
文脈支持の「あ」の説明としては、管見の及ぶ限り「記憶のなかにあるものを指すのが『あ』」という説明が一般的である。
それは確かに正しい。
私のジージャンを「ねー見た? あれだっさ! プークスクス」している学生さんたちは、一瞬前の記憶をもとに会話しているわけである。
しかし、「記憶」と表現してしまうと、たった今生じて消えた話題(休み時間になってそそくさと教室から出て行った先生)も「記憶」なのだと認識しづらいのではないだろうか。
だって「ついさっき」なのだから。
もちろん「ついさっき」のできごとだって過去なのだから、「あれ」だって「記憶」の産物なのであるが、学生さんに説明するときに「ついさっき」と「記憶」というそれぞれの語感がなじまないかもしれない。
もうひとつ。
私は前の方で「“这”は『こ』、“那”は『そ・あ』」であると述べた。
私が知る限り、この原則にはひとつだけ例外がある(2つ以上あるかもしれないけど)。
それはたとえば、
A「彼、最近元気ないけど、どうしたの?」
B「なんか彼女と別れたみたいだよ」
A「あ~、そうなんだ」
の「そうなんだ」である。
上の会話を中国語にするとこうなる。
A〝他最近没有精神,发生什么事了?〟
B〝听说他跟女友分手了。〟
A〝哦,是这样子阿。〟
ごらんのとおり、ここでは「“这”は『こ』、“那”は『そ・あ』」という基本から外れ、日本語では「そ」なのに対して中国語では〝这〟が使われている。
これを「こうなんだ」と誤用する学生さんにはあったことがないので、教育・指導面では前衛化していない問題ではある。
しかし、「なぜ『そうなんだ』が〝是这样子阿〟となるのか」という問題は、日本語や中国語の性質を理解するためにも、ひいては日本人(大和民族)と中国人(漢民族)の「言語以前」の世界認知に迫るためにも、非常に大事な問題だと私は思う。
この問題への私なりの勝手な考えは以下のようなものだ(素人考えです)。
中国語和者は相手の話を聞いて納得したあと、その話題や情報が「自分の手元」にあるとイメージしている(だから〝那〟ではなく〝这〟が出てくる)。
それに対し、日本語話者は(納得していようがいまいが)相手がもたらした話題や情報の存在を「自分と相手との間」に宙吊りにしている(だから、「あ」でも「こ」でもなく「そ」が出てくる)
つまり、自分に手渡された話題や情報を受け手が配置している空間イメージが異なることに由来するのではないだろうか。
日本語の「そうなんだ」にも「そうなんだ」(しらんけど)や「そうなんだ!」(うんうん、私もそう思ってた)などといろいろあるが、中国語の相槌にもいろいろある。
私の経験から言うと、「そうなんだ」(しらんけど)に近いのは、〝是吗?〟である。これは直訳すれば「そうなの?」であり、相手から与えられた話題や情報に同意はしないがその存在は認める意味合いがある。形式的には疑問符を伴っているが、語尾を上げて発音したりしない限り、必ずしも「本当に?」と問いかけているわけではない。
「そうなんだ!」(うんうん、私もそう思ってた)の場合、中国語では直接〝就是〟(まさに)とか〝对〟(正しい!)とか〝 我也一样〟(私も同じだ)などを使う。とくに〝对〟は便利で、私などはお酒の席で相手の言葉に「我が意を得たり」と感じたときは、〝对对对!〟などと連発してしまう。言っている方もリズミカルで気持ちいいし(麻雀で「ポン!ポン!」と鳴いてトイトイをつくるみたい)、言われた方も同意を得られて嬉しい表現である。
こうしてみると、〝是这样子阿〟という表現は、話し手が聞き手に対して「あなたの話したことはここまで届いたよ」と伝えているわけであり、そういう意味では語の意味としても実際の用法としても、基本的には聞き手が心から納得したり共感した時に使われるのである。
対して、日本語では「こうなんだ」とは絶対に言わない。たとえ心から納得し共感したとしても、そうして納得・共感された話題や情報は「ここ」でもない「あちら」でもない「そこ」にあると、日本語を母語とする我々はイメージしているのである。
だから、「そうなんだ」には、けっこう他人ごとだったり冷たい感じが感じられる。
そのかわり、相手の話を聞いて「こうですか?」「こういうこと?」は結構使う。この「こう」は、相手の話を聞いたあと自分なりに再現した理解を指しているのであって、決して相手の話をそのまま手元に引き寄せたという意味ではない。
もちろん相手の話を聞いて「いや、こうだろ」という人間もいるが、これだって自分の手元にある自前の考えを(押し付けがましく)差し出しているだけである。
もしかしたら、日本人は他者や他者が口にする言葉を「ここではないところに完璧な形で存在していて、手元には不完全な形でしか引き寄せられない」とイメージしているのかもしれない。
それで思いついたが、中国人学生はよく作文で、日本語では「~そうだった」「~そうにみえる」と書くべき他人の感情表現を間違う。つまり、
「私からプレゼントを貰って、母は嬉しい」
と書くのである(お母さんが本当に嬉しいかどうかなんて誰にもわからないのに)。
日本語ならば「母は嬉しそうだった」とか「母は嬉しいと言っていた」とすべきである。
もちろん小説なんかでは「このとき、太郎は心底悲しかった」などという表現が許されるが、それは小説においては書き手が「神」の立場に立てるからこそ許される表現なわけである。
おお、中国語と日本語の間に存在する他者理解可能性という問題へのアプローチの相違!
これで論文が書けるかも。
なんてのは私の勝手な思弁だが、おもしろい。
そんなこんなをLさんとSさん相手にお話しながら、それを説明するために頭に浮かんだイメージを片っ端からホワイトボードにぐちゃぐちゃ殴り書きしつつ、べらべら説明する。
2人はそれの「ぐちゃぐちゃ」「べらべら」を自分なりに理解し、その結果をすぐさまラフに描き起こして「先生、こんな感じですか?」(おお、私の言葉が届いたから「こんな」なのね)と見せてくれる。
すごい。
絵を描ける人ってかっこいい。
絵が描けるだけではなく、私のお伝えしたかったことをちゃんと掴んでいる。
「そうそう、そんな感じです」(ああ、また指示詞が!)
こんなことを(うう、ここにも)2時間ほどやっていたので、3人ともぐったり疲れる。
16時を過ぎたあたりでSさんのお腹の虫が「おい、話長いぞ!」と喚きたて始めたので、今日はここまで。
お疲れさまでした。
ふたりが帰ったあとも少し指示代名詞について考える。
当然ながら、私たちの会話はなにも目の前の物体や場所だけを指して展開されるものではない。
むしろ思い出話や討論こそ人間的言語活動だとも言えるので、「文脈指示」は非常に大切である。
そして考えてみれば、これも当然のことではあるが、「文脈指示」にも2種あるのである。
つまり、時空を共有し対面して展開されるコミュニケーションに出現する指示詞と、時空を異にし一方的に語りかけられるかたちで成立するコミュニケーションに現れる指示詞である。
前者は主にオーラル・コミュニケーションに見られるものであり、後者は読書体験や執筆体験で出くわすものである。
大学というところは研究機関であり教育機関であるわけで、我々人文社会科学に携わるものがなす研究の基本は読書と執筆であるわけだから、大学における日本語教育では本来ならば「文脈指示」の代名詞こそ仔細に教えるべきである。
ところが、驚いたことに日本語教育の初級の教書では「現場指示」の指示詞しか説明していないのである。
というよりも、そもそも私が知る限り、日本語教育(中国の大学における日本語教育)の基礎段階では、口語文法のみを扱っていて文語文法を扱っていないのである。
初級段階の一年生は、日本語学習の大半を「山田さんは公務員です」とか「天気がいいから散歩をしましょう」のような(面白くもくそもない、おっと失礼)オーラル中心で教えている。
そりゃ閲読や作文が苦手な学生が多いわけだわ。
だって、閲読だと「これは」とか「そのように」とかバンバン出てくるし、みんなが重視する日本語能力試験だって「下線部の『これ』とはなにか」が問われるんだから。
卒論執筆だってそうでしょ。
「この考えは本当だろうか」と書くのと、「その考えは本当だろうか」と書くのでは全く意味が違う。
海外旅行のためにオーラルだけを学びたいという学生向けの塾ならまだしも、大学の語学教育として、これってまずいんじゃないと思う。
なぜここで私は「これ」を使い「それ」を使わなかったのか、学生諸君に理解していただけるだろうか。
さっきの「この」は、問題を自分の手元まで引き寄せるという私なりの責任感の現れである。
考え出すとキリがないのでここらへんで打ち止め。
少しだけ作文の授業課題を添削し16時には退勤。
いつものスーパーへ行き、今日は出来合いのものを夕食として買う。
家に帰って買ってきたもの(あひるの照り焼きとサニーレタス)を食べながら、「のだめ」の続きを見る。
「なんだよ、アニメなんて見る暇があるなら原稿進めればいいじゃん」
いやいや、アニメを見るのだって重要な仕事なのである。
ほんとうですよ。
アニメの中には「使える」シーンがたくさんあるのだ。
たとえば、このまえから言っている「ハとガ」のうち、「対比・比較のハ」がアニメ版「のだめカンタービレ」16話に出てくる(原作漫画では7巻)。
「夫」千秋が作った学生オケの練習休憩中に、自称「良妻」としておにぎりとお味噌汁を差し入れしに来た“のだめ”。千秋に「何しに来た、さっさと帰れ!」と煙たがられつつも、初対面であり千秋のオケ仲間であるオーボエの黒木くんへの差し入れに成功する(ついでに「良妻スマイル」と「良妻ウォーク」で黒木くんの心を奪ってしまう)。
以下は、そんな黒木くんが後日のだめにおにぎりを包んでいた風呂敷とお味噌汁が入っていたスープジャーを返す場面である(ちなみにのだめは極度の料理ベタです)。
黒木「ああ、そうだ。この間は差し入れをありがとう。僕は森光音大の黒木泰則。お、おにぎりはすごくおいしかったよ」
のだめ「お味噌汁は?」
黒木「あっ、おいしかったよ、ボクはーーところてん好きだし!」
のだめ「マロニーです」
以前もここに書いたかもしれないが、ハには対比・比較の意味合いがあるため、不用意に使ってしまうと、聞き手に対して背後に潜む比較対象だったり含みだったりを暗示してしまうのであるが、この黒木くんの「ハ」、まさにそれである(味噌汁にマロニーって……)。
学生さんにこのことを理解してもらう時に、私だけの説明だけではなく、このシーンがあればより勉強はスムーズに進む。
私はいろんな授業でいろんな映像資料を使用するが、それはこうして私が夜な夜なご飯を食べたりお酒を飲んだりするというプライベートな時間を利用して、学生さんの教育のために目を皿のようにして探しているからなのである。
無駄などないのよ(まあ、ただの趣味なんだけどね)。
などといろんなことを考えつつアニメを見ていると酒量が増してしまっていかん。
学生さんも大切だが、私の肝臓さんもいたわってあげなければ。
明日もやるべきことはあるので、早めに切り上げ、日付が変わるには就寝。
おやすみなさい。
27日(日)
7時半に起床。
ささっと身支度をして大学へ。
さすがに日曜日の朝の外国語学院棟には人気がない。
私は土日に学校に来て仕事をすることが大好きなのであるが、それは単純に人がいなくて静かでいいからである。
若い学生さんたちが賑やかにキャンパスライフを楽しんでいるのは見ていて非常に微笑ましいのであるが、それでも声量が一定限度を超えるとか、はたまたその日の「虫の居所」が悪いとかすると、「煩い」と感じることが避けられないのもまた人間である。
うちの大学は外国人教師と中国人教師がオフィスをシェアしている(前前任校は外国人専用にオフィスを用意していた)。だから自然と日本語学部の中国人教師の方々とおしゃべりに興じる機会が増すわけで、これも結構楽しいのだが自分が原稿を書いたり沈思黙考しているときには、やっぱり一人になりたいのも自然なことである。
というわけで、私は土日に学校に「出勤」するわけである。
私以外の先生方には家庭があるので、土日に出てくる先生はほとんどいらっしゃらない。
なので、私は休日となると喜々として誰もいないオフィスを独占し、お仕事を楽しむのである。
ときどき学生さんが「先生はまだ若いんだから、女の子を誘ってどっか外に遊びに行くとかしたほうがいいですよ。仕事だけが人生じゃないんだから」と諭してくれる。
私自身も「これでいいのだろうか」と思うことがないわけでもない(1ヶ月に3秒くらいだけど)。
でも、仕方がない。
人間がアディクトする「なにか」は人それぞれだが、アディクトする理由はただ一つである。
そう、「楽しい」からである。
最近の私は「酒」と「ネット」と「自転車」と「仕事」にアディクトしているが、一見無関係に見えるこれらは、私のなかで「楽しい」という共通軸を中心としてクルクル回っている。そして「仕事」こそが「楽しく『くるくる』回った」結果を「みんな」にお披露目し、評価していただく舞台なのである。
当然ながら評価して頂ければ「嬉しい」。「嬉しい」からもっと工夫する。その工夫は工夫そのものが「楽しい」のだから、この「くるくる」に出口などない。
仕方がないのよ、惚れちゃったんだもの。
というような駄文を綴っている時点で「仕事」などしていないのであるが、休日なんだし、まあいいじゃないか。
11時になったので、朝食兼昼食として「お茶漬け」を頂く。
昨日夜ご飯として買ったおかずを買ったときにご飯がついてきたのだが、私は夜はご飯ものを食べない(酒を飲むから)。
なので、昨日の冷ご飯をそのまま家から持ってきて、お湯を沸かし、永谷園の「お茶漬けの素」でサラサラといただく。
久しぶりだが、うまい。
満腹したので1時間ほど散歩に出る。
もうすぐ11月なのに朝顔が咲いている(と書いたあとに調べて初めて知ったが、朝顔のシーズンって11月までなのね。知らなかった)。
雑踏を抜け、川沿いのいつもの散歩コースへと足を運ぶ。
並木もどんどん葉を落とし始め、冬がそこまで来ていることを教えてくれている。
ところで、散歩中に「田舎料理」のお店の宣伝文句が気にかかった。
ごらんのとおり、“让你吃的嘴流油!!”(あまりの美味しさであなたのお口を油まみれにしまっせ、みたいな意味かな、あんまり綺麗な印象を受けない表現だけど)と書かれている。
が、先日の日記で書いたように、これは「食べた結果、こうなるよ」という関係性を示しているので、ここの構造助詞は「的」ではなく「得」を使うべきだろう。
私の中国語はしょっちゅうネイティブから「発音が変」だと言われているので、ネイティブの間違いを発見するととても嬉しい(性格悪い)。
昨日Lさんとお話したことだけども、この「的」と「得」は現在ネイティブですらめちゃくちゃに使われている。
口に出すだけならば、どちらも発音は“de”(ダ)なので表面化しないが、作文させると一目瞭然である。
以前は魚料理屋さんで、こんな間違いを目にした。
写真を見ていただけばわかるように、このお店は魚の浮き袋やら脳やら唇やら、ようは喰える部位は全て提供するというお店なので、左上に“咬的动的都能吃”(噛み切れるんは全部食える)と書かれているのだが、ここは正しくは「咬得动的」(噛んで動くもの)としなければならない。
ようはネイティブという存在は、自分の使っている言葉の意味や働きについて、いちいち理解した上で使ってなどいないのである。
それは私も当然そうであって、だから授業中に学生さんから、
「せんせー、『さりげなく』と『それとなく』の違いってなんですか?」
とか
「『終始』と『始終』の使い分けを教えてください」
とか言われて初めて「ああ、そういえばなんか違うね」と気づくのである。
こういうよくある「日本語学習者からの質問」に対しては、ちゃんと傾向と対策的な書籍も販売されていて、私も座右に置いてはいるのだが、ほとんど読まない。
だってそんなもん原理的に覚えて済む問題ではないからである(キリがないよ)。
まあ、でも6年もこの仕事をすれば、この手の予想外の質問への対応方法もだいぶ身に付いたので、別に困っていない(どんな対応方法かはこんなところには書かない)。
途中でスーパにより夕飯の買い出し(半額の刺身とマナガツオ)をしてからオフィスに帰還。
4年生の学生さんの研究計画書を読んでチェックするお仕事(というかボランティア)と3年生の作文の添削(これは契約範囲内のお仕事)を夕方までする。
今日はOさんの研究計画書を途中まで読む。
なかなか面白い。
コミュニケーション論なのだが、「コミュニケーションへのコミュニケーション」、つまりメタ的視点からコミュニケーションに迫ろうとしているのだ。
面白いけれど、ちょっと難しい。
赤ペンで朱を入れながら読み進める。
頭を使うとお腹がすく。
お腹がすくと疲れる。
時計を見ると15時すぎ。
ちょっと早めだが今日はここまで。
帰宅。
久しぶりにジョギングしたくなったので、着替えてグラウンドへ。
するとグラウンドがなにやらイベントで貸し切られているらしく、なかに入ることができない。
どうしよう。
いつもの公園まで行ってそこで走るのも手だが、できればアスファルトの上は走りたくない。
というわけで、歩いて10分ほどの漢方・中国医学系の医大のグラウンドへ行く。
最近の中国では入構者に対してIDを確認する大学が増えてきているが、ここはうちと同じく、基本的にそんな無粋なことはしない。なのでキャンパス内では近所のお年寄りやら子どもやらが自由に時間を過ごしている。
そういうのって大学の雰囲気をよくするためにも大切なことだと思う(安全確保が重要なことはもちろんだが)。
音楽を聴きながらアンツーカーの上を30分だけ走る。
それにしても夕方が近づくにつれ天気が急に回復し、素晴らしい秋の日曜日の夕暮れである。
走り終わったので、うちの大学のキャンパス内を通って帰宅。
途中で校内に棲みついている茶トラに出会う。
猫は本当に百面相。とても愛らしい顔を見せたかと思うと、次の瞬間には邪悪な目つきを晒したりする。
それが猫の魅力である。
28日(月)
6時起床。
寒い。
私は大学までの僅かな距離を安物のピストバイク(トラックレーサー、いわゆる競輪車だな)で通っているのだが、風に手が悴む。
そろそろ手袋が必要だな。
大学の広場の地面すれすれに霧が発生している。
綺麗。
重慶にいた時は、それはそれは霧とのお付き合いだった。
こういう地面近くに漂う霧が出た場合、経験から言うとその日は晴天になる。
というより、その日(夜)が晴天で雲がなく空気中の熱が発散され地熱が相対的に高まるからこそ、こういう霧が出るのである。
8時から12時までまずは2つ授業をこなす。
最近やたらと「言いたいこと」が沸いてきて、授業中もわーわーわめき散らす。
学生さんたちには騒がしくて申し訳がない。
今日お話したのは、「左上右下の礼儀感について」「『粋』を定義することの無粋さについて」「なぜ日本語の『勝つ』は自動詞であり英語の『win』は自動詞としても他動詞としても使えるのか」などなど。
これを話し出すと長くなるので(さっき実際に話したので実証済みである)稿を改めて書こうと思う(別にこれは原稿ではないが)。
たくさん喋ったので、健康的な空腹感を覚える。
オフィスに戻って昼ご飯。
ネットで「レンジでパスタを調理できる」神器を購入したので、学院の電子レンジでパスタを茹で、カレーソースに敢えて食べる。
美味しい。
13時にOさんが研究計画書を持って来る。
だいぶ練れてきた。
けっこう読んでてワクワクする。
これまで言語化できていなかった自分の問題意識を、自分の生活感覚・身体感覚から説明するよう意識するようになっているからである。
その調子。
7・8限の授業まで机仕事。
16時から2年生の会話をこなしたあと、こんどはSさんが計画書を持ってくる。
空腹を抱えつつ検討。
ぱぱっと終了。
スーパで買い物した鮭ときのこで「ホイル焼き」を作り、パクパク食べる。
食後に散歩し、シャワーを浴び、ベッドで読書しているうちに眠りのなかへ。
泥の様に眠る。