とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

私がやたらと文章を書いて出すわけについて 

授業が終わり、自由な時間ができた。

自由な時間ができたので、ふだんは時間がなくてなかなか読めなかった本を読んだり、気になっていた映画を見たり、思案顔で散策をしたり、ふんふんとご機嫌に楽器を弾いたりしている。

不思議なもので、いったんそういう生活モードに突入してしまうと、いろいろと「言いたいこと」がむらむらと沸き上がってくる。

その「むらむら」に乗じて「言いたいこと」を言葉として書き出し始めると、そのうちにペンが(というかキーボードを打つ手が)とまらなくなり、気づけば1時間ぐらいの時間なら「あっ」というまに溶けてしまう。

いわゆる「ゾーンに入る」というやつである。

スケジュールが詰まった(というほどでもないが、決められた)ふだんは許されていない快楽である。

私は、そうやって書いたものはせっかくなのであちらこちらにアップロードすることにしている。

もちろんこのブログもそうだし、中国ではQQやWechatというSNSを利用しているので、突発的に思い浮かんだことはそっちに記録して発表している(それをまとめたあとでこっちアップすることもある)。

ここ最近はすごい。

おそらくこの数日だけで万単位の文字数を書いてはアップロードしている。

そんなことをしてしまうと、私と「ともだち」になっている方々のタイムラインは私の駄文だらけになってしまい、私を“ミュート”にでもしない限り、たいへんな迷惑をかけることになってしまう。

すみません。

QQやwechatでは、多くの学生さんと“好友”(ともだち)になっているので、なかには「なぜこいつはこんなにたくさんの文章を出すのだろうか」と首をひねっている学生諸君もいるかと思う。

「先生は自分の考えを広めたいのかな」とお考えかもしれない。

ちょっとまってね、それはちょっと違う。

私は何も「自分の考えを広めるため」に、こうして文章をアップロードしているわけではない。

もちろん、自分の考えをこうして人目に晒す以上、そこに「自分の書いたものができるだけ広く読まれてほしい」という願いがあるのは当然である(「広く読まれてほしい」と「広めたい」は違うと思うが、それはそれとして)。

だから、自分が書いたものを「面白い」とか「なるほどね」などとお褒めいただいたときは、素直に嬉しいと思う。

ありがとうございます。

しかし、私が自分の書いたものを公開している目的はそこにはない。

いくつかの個人的動機がある。

せっかくなので、ここではその「いくつかの個人的動機」のひとつをお目にかけようと思う。

興味がある方はご笑覧ください。

 

私たちの社会には、一見すると人当たりがよく礼儀正しいが、心から信用できない人間というものがいる。

彼ないし彼女はいつもにこやかな笑みを湛えている。

彼らの対人スキルには一分の隙もない。

初対面の人間には自らさっと手を差し出し、相手の話を聞くときは「うんうん」と聞きながら、必要があれば適切な助言や意見を述べる。

完璧なのである。

にも関わらず、彼ないし彼女に私たちは微かな不安を与える。

そういう人間が私たちの周りにいるのである。

少なくとも私はそういう人間に会ったことがある。

なぜ私は完璧である彼ないし彼女に微かながらも不安を覚えるのか。

以前、この問いについて考えていた時期が私にはある。

その結果、わずかばかりではあるが、私なりの答えを得た。

というのも、このような「完璧な」人間は、その実「腹の底で何考えているかわからない」人間、「裏で何言っているかわからない」人間だからである。

じつは、彼らと実際に付き合いを続けていくなかで、その「腹の底」や「裏」が垣間見える瞬間がところどころ存在している。
つまり、彼ないし彼女がふと一瞬その“影”を見せたり、「あれ? なんかおかしいな」と私たちに感じさせる言動をとることが、ほんの希にあるのである。
とはいっても、基本的に彼ないし彼女は「人当たりがいい」「礼儀正しい」。

だから、私たちは「きっと私の気のせいだろう」と流してしまう。
そうして交際を重ねるうちに、ある日とつぜん彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」で蠢いていたものが“にゅっ”と姿を現して、周囲を深刻な事態に巻き込む。

そういうことが実際にあるのである。
まだまだ若輩者ではあるが、私もさすがに33年生きてくると、そういう経験がある。

経験を通じ、身銭を切って、そんな人間が実際に存在することを私は知ったのである。

同時に私はあのような人間の見分け方を私なりに身につけた(ここではいわないけど)。

それだけではない。

私自身があのような人間にならない方法を発見するに至ったのである。

それは如何なる方法か。

簡単である。

「あの人が腹の底で何考えているか分からない」

「彼が裏で何言っているかわからない」

みなさんにそういう疑念を抱かせなければいい。

それだけなのである。

普通ならここで、「裏表を使い分けるのをやめよう」とか「裏でこそこそだれかの悪口を言うのはよそう」と考える。

しかし、それはあまりに短絡的である。

というのも、私たちは主観的には無自覚に裏表を使い分けることだってできるからである(現に私はやってる、たぶん)。

悪者がみな自覚的だとは限らないのと同じである。

真に邪悪な悪者は、むしろ自覚的には「善意の人」なのである。

というのも、自覚的には「善意の人」の邪悪さは歯止めが利かないからである(「いいことしてる」んだから、自覚的には)。

私が悪者かどうかについて、私の主観では判別できないのである。

同じように、私は自分が自分が裏表を使い分けているか、陰口を叩いていないか、私の主観では判断できない。

だから、私は私が無自覚に裏表を使い分けている可能性を考慮するし、自分が無自覚に裏でこそこそ他人の悪口を言っている可能性を考慮するようにしているのである(自覚的にどうどうと言うこともあるが)。

私が「裏表を使い分けるのをやめよう」とか「裏でこそこそだれかの悪口を言うのはよそう」という試みを短絡的だというのは、そのような意味においてである。
それに、よく考えてみれば、相手によって対応を変えるのはそもそも当たり前のコミュニケーション作法である(あなただって友達と上司に同じ対応をしますか? 私はしない)。
そもそも人間というものは、人には見せられない・見せたくない裏の部分だってあって当然ではないだろうか(あなたにだってあるんじゃないですか? 私にはあります)。

だから、じつはある人間が「腹の底で何考えているかわからない」「裏で何言っているかわらない」ことそのものには、なんの問題もないのである。

だって、それはあなたにも私にも変わらず当てはまる「人間の常識」だからである。

話を整理すると、「一見すると人当たりがよく礼儀正しい人」が抱える問題は、彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」がわからないことではない。

問題は、彼ないし彼女の「腹の底」や「裏」について私たちが分析・推測・判断するための材料を、彼ないし彼女が私たちに決して与えないところにあるのである。

先に述べた「一分の隙もない」「完璧である」とは、そのような意味を持つ。

彼ないし彼女は自分の本心について「ボロ」を見せない。

だから、私たちは「あの人がほんとうは何考えているか知りたいんだけど、あの人はその手がかりをちっとも提示してくれない」「もしかして、私たちに何か隠しているんじゃないの」と疑心暗鬼になる。

かくして私たちは「一見すると人当たりがよく礼儀正しい人」に不安を覚えるのである。

ここまで考えを進め、私は「おお、そうか」と思った。

じゃあ、おいらがみなさんに「何考えているかわからない」と不安を与える可能性は低いじゃないか。

というのも、まず第一に、そもそも私は「一見すると人当たりがよく礼儀正しい」人間ではないし、「一分の隙もない」人間でもないからである。

私は気の利いたジョークも言えないし、相手の気持ちなんて読めないし、人見知りだから初対面の人に自分から手を差し出すなんて芸当は死んでもできない。頭が悪いくせにおしゃべりだから、まるで赤ちゃんがご飯を床にポロポロと落とすように、言わなくてもいいこと・言ったらまずいことを平気で口走る。私はそういう人間である。

この時点で「あの人、何考えているかわからない」と不安感を与える恐れが半減したわけである。

よかったよかった。

しかし、念には念を入れる必要がある。

もうひとつ手を打とう。

つまり、「私が腹の底で考えていること」や「私が裏で言っていること」に対して、みなさんが「そんなのわかりきってるじゃん」と自信を持って回答できるようにしておけばいいのである。

つまり、私の「腹の底」や「裏」について分析・推測・判断するための材料を、オープンな形式で提供しておけばいい。

そうすれば、あとはみなさまが勝手に私の「腹の底」や「裏」について分析し、推測し、判断し、そして納得してくれる。

「あいつの本心なんて見え透いているじゃないか」と。

それに、だいたい私自身だって私の「本心」なんてわからないのである。

みなさんが納得したその解釈を聞いてみたいものである。

そう。

ご賢察のとおり。

だから、私はこうして毎日、みなさんにとっては「どうでもいい」文章を書いて公開しているのである。

まあ、ときおり筆が滑って「あいつはバカ!」とか「こいつ、嫌い!」とかいうふうに、私の「腹の底」や「裏」がボロボロ出てしまうが、むしろそれこそが私の「腹の底」であり「裏そのもの」なので、「あいつが何考えているかなんてわかりきったことじゃないか」とみなさんに思っていただくという私の所期の目的に完璧に合致しているわけだから、まったく構わないのである。

もちろん、大抵の人間は「そもそもおまえなんかに興味ないよ」とお考えだろうから、そういう人にとって私のこの気遣いは余計なお世話だろう(すみません)。
しかしそれでも、ここまでずるずると読んじゃったみなさんは、おそらく良くも悪くも私(の文章)に興味をお持ちのはずである。

だからここまで読んじゃったのである(違いますかね?)

ありがとうございます。

そして、ときどき「きみが『言いたいこと』って、こういうことでしょ?」と言ってくれる人がいる。

おお、私が「言いたいこと」って、そういうのもあったのか。

なるほどなるほど、ありがとうございます。

そのために私は文章を書き、それをこうして公開するのである。

というわけで、ここまで読んでくださった方への感謝の気持ちを込めつつ、私が駄文でお目汚しをする理由ともに、私の「腹の底」「裏」を判断する材料(=私にとっては私も知らぬ「私の言いたいこと」に出会うきっかけ)を、こうしてそっと記しておくのである。