とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

雑記(30日・31日)

1月30日(土)

9時起床。

昨日のビールのせいか、少し頭が痛い。

週末ではあるが、残った採点を片付けるために学校へ。

途中、キャンパス内の「梅園」を突っ切る。

私の勤務校は農業大学である。

だからかどうかは知らないが、キャンパスのいたるところに梅や桃、百日紅、ザクロなど、さまざまな木々花々が植えられていて、なかなか気分が良い。

中国の各都市は環状道路が発達していて、一般的に“一环内”(環状一号線の内側)が市中心とされる。

開発が進んでおり、住むにも働くにも便利であるが、当然ながら土地代や不動産価格が高い。

農業大学は実習に使う畑やら林やら家畜舎やらで土地を要するので、郊外に立地していることが多い(と思う)。

しかし、うちは(ほんとうかどうか知らないが)全国唯一の“一环内”に立地する農業大学である(移転するお金がないだけかもしれないけど)。

なので、買い物やお出かけに便利な立地でありながら、農業大学であるがゆえ、キャンパス内には豊かな緑が広がっており、なかなか快適な環境なのである。

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赤線で示したものが合肥の環状1号線、青線が環状2号線。ちなみに現在の合肥の中心は環状2号線のちょっと外にある。

合肥は安徽省の省都であり、毎年発表される中国各都市の格付けランキングで昨年新しく「新一線都市」に位置づけられた(北京・上海・広州・深センが一線都市でいちばん上、以下に新一線、二線、三線と五線まで続く)。

近年発展目覚ましい街なのである。

とはいえ、全国的に言えば一地方都市なのも確かな。

そんな合肥でも最近、部屋の値段が高騰している。

さっき調べたところ、去年12月のマンション販売価格は1平米あたり15000元だった。日本円にするとおよそ24万4000円である。

合肥の平均月給はというと、これまた昨年のデータであるが、ひと月およそ4200元(約6万8000円)。分布で言うと、最も多いのは2000元から3000元のゾーンである。

一概に言えないが、中国で一般的なマンションの間取りは、トイレ併設のシャワールーム、キッチン、ダイニングルーム(リビングルームを兼ねていることもある)、ベッドルーム×2、そしてベランダ。

これでだいたい100平米前後必要だとしたら、ひと部屋買うのにおよそ2400万円かかることになる。

これ、どうやって払うの?

もちろんローンと親の援助に頼ることになる。

中国では結婚するときに夫が部屋を買うのが一般的である(結婚して部屋を借りるのは一般的ではない)。

つまり、中国人の結婚において、男側の経済的負担にはかなり厳しいものがあるといえる。

そのため、夫婦の間に男の子が生まれた場合、「おぎゃー」と生まれたその時点から、息子の将来に備えて結婚資金を貯め始めると聞く。

うー。

他人事ではあるが、中国の男子諸君が気の毒である(ほんとうに他人事だが)。

 

閑話休題。

梅の話をしていたのだった。

仕事場へと向かう途中、「梅園」で足をとめ、梅を眺める。

というのも昨日、日本の母上より梅の便りが届いたからである。

向こうはもう咲いているのか。

早いね。

私にしては珍しいことであるが、少しだけホームシックになる。
思えば去年の今頃は大変だった。

もともと私は日本へ帰省する予定だったのだが、ときはまさに新型コロナの感染拡大が始まっていた時期であった。

万が一にも日中間の「ウイルスの架け橋」になるわけにはいかない。

ちょうど妹さんのお腹に第二子がいるということもあり、自主的にキャンセルしたのである。

幸いなことに、中国側の航空券は政府のお達しにより全額返金・手数料無料だったし、日本側の航空会社(ジェットスター)も事情をお話したところ快く全額返金・キャンセル料不要との寛大な計らいをしてくれたので、金銭的なダメージは0だった。

それに大学に残ったことで、こうしてずっと中国で仕事・授業をできているのは大きい(よその大学では春節に帰省した日本人教師が戻ってこれなくなり、授業をすべてオンラインでしているところもあるのだ)。
とはいえ、さすがにまるまる2年帰国しないとなると、ちょっと日本が懐かしくなる。
母が送ってきた郷里の海や空を見ると、非人情で、意地が悪く、血も涙もない私でも、さすがに少し恋しくなってくる(まあ、「少し」なあたりに非人情さが確認できるのだけれども)。

こちらの梅はまだまだのようで、一輪しか開いていない。


しかし蝋梅は満開である。


オナガが飛び交い、嬉しそうに木の実を啄んでいる。

ああ、春よ。
私はお前が待ち遠しい。

おっと。

花鳥風月に思いを馳せている場合じゃない。
引き出しの中では未処理の答案が私を待っているのだ。
感慨を振り払い職場へ向かう。

昨日までに4科目中3科目が完了。

残るは4年生の「視聴説Ⅲ」のみである。

3時過ぎにコンビニに行った以外は6時まで缶詰。

とりあえず論述問題の採点を残し、今日は終了。

ぐうぐうと嘶く腹をさすりながら、「いつもの店」へ。

中国には“牛肉汤”“羊肉汤”の看板を掲げた店が多い。

これらの店はたいていサイドメニューとして“饼”(Bing3)を売っている。

日本語の「餅」と同じ漢字だが、その実「もち」にあらず。

中国語でいう“饼”とは、米からなる「もち」とは違い、小麦粉から作られた食品を広く指す(月餅とかそうだね)。

で、“牛肉汤”“羊肉汤”のお店で売られている“饼”に話を戻すと、これは小麦粉生地を薄くのばし、かまどの内側に「びたん!」と貼り付けて焼いた主食である。

インド料理の「ナン」を想像していただければ伝わるかと思う。

このお店は“粉丝”も“面”も美味しいので、もしかしたらと思い頼んでみると……。

うん、やっぱり。

私の直感に狂いはなかった。 

うまい。

香ばしく焼かれたカリカリの外側とは対照的に、なかはふんわりもっちりしている(ああ、定型的な表現しかできない私の語彙力)。

おそらく生地そのものに下味が付いているのだろう、調味料をつけずともそのままで美味しい。

うーん、この店、なかなかやるな。

メニューが豊富なので、しばらく「開拓」に通う必要がありそうだ。

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満腹したので川辺を散歩して帰る。

 

31日(日)

9時起床。

昨日、「この週末で採点を片付ける!」と自分に対して宣言したので、朝食(豆乳、焼売、中華まん)を済ませ、っそく作業にとりかかる。

順調に進み、3時すぎに全採点が終了。

ふー。

あとはこいつを集計し、学校に行って教務のWebサイトで登録する(別に家のネットですればいいのだが、なんだか学校でしたほうが落ち着くのである)。

いつのまにか降り出した雨の中を大学へ。

 途中、チャーハンで腹ごしらえ。

このボリュームで12元也(200円)。

太る。

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 膨れた腹をさすりながらキャンパスを歩いていると、先週書いた「家を失った猫」にであう。

なんと。

「家」が復活しているではないか。

たぶん、誰かが一時的にどかしただけだったのだろう。

“家主”も心なしか嬉しそうである。

よかったよかった。

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 誰もいないオフィスに到着。

成績をWeb入力する。

とはいえ、その前にやることがある。

まず答案を名簿順に並べなおす(あーめんど)。

それが終わると電卓を持ち出し、いちど計算した各大問の点数および答案の総得点を念のため再集計する。

成績は学生さんにとっては大事だし、なにより私は算数が(数学がではなく算数が)大の苦手なのである。

年には念を入れておく。

案の定、単純な足し算のミスが複数発覚する。

ほらね。

私は私をまったく信じていない。

なぜなら、私は33年分の自分のバカさをよく理解しているからである。

「でも、自分を信じないでどうやってものごとを判断するのさ。ずっと疑い続けるわけにもいかんでしょ」

そこである。

私は私をまったく信じていない。

しかし私は「私をまったく信じていない私」だけは完全に信頼しているのである。

だからこうして「俺ってバカだから、ひょっとしてありえないほど単純な計算ミスしてんじゃね?」と私に囁く私を、私は信じることにしている。

そして、念のために確認してみる。

すると、やはり私は間違っているのである。

「おお、やっぱり『俺、間違ってんじゃね?』と自分を疑う私は間違ってなどいなかった!」

こうして私は妙な自信を獲得するのである。

もちろん「スカ」もある。

つまり、疑って確認してみたものの、結果的に私が間違っていなかったということもある。

それはそれで「なんだ、確認したからはっきりとわかったけど、間違っていなかったじゃん。俺って偉い!確認して良かった」と根拠を持って自分を褒めることができるので、無駄ではないのである。

とりあえず無事に4年生の成績を入力し提出。

あと2教科。

さすがに自分のバカさ加減を疑い続けるのも疲れたので、昨日届いた村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中国語訳をぱらぱらと捲る。

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この訳本、いいね。

何がいいかというと、内容ではなく(ぱらぱら捲っただけなんだから)、訳者の余計な解説や感想がいっさい所収されていないところである。

ときどき「鼻につく」解説や「どうでもいい」感想を合わせて本にする訳者がいる(誰とは言わないが)。

そういうのってどうかと思うぞ。

訳者はあくまで黒子なんだから。

誤解されないように急いで付け加えるけれど、私がここでいう「黒子」とはまったくもって賤意ではない。

「存在しないという形で存在する」。
それが訳者の大切な仕事だと私は思うのである。

訳者の存在感は訳者自身の存在感を感じさせないことで発揮される。

私はそう思う。

もちろん、解説が必要な訳書もある(たとえばレーモンクノー『文体練習』とか)。

それに感想を書きたいなら書けばいいと思う。

しかしそれはあくまで訳者の本分を損なわない範囲でやってほしい。

とくに、本編に先んじたスペースでやるのだけは勘弁していただきたい。

お願い。

6時過ぎに帰宅。

疲れたのでさっさと寝る。