とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「巧さ」と「自然さ」について

27日(日)

私は「日曜日にはネジを巻かない」(by 村上春樹)。 

なので最低限の運動と夕飯の買い出し以外、家でゴロゴロして過ごす。 

「ネジを巻かない」ので、当然頭はボーッとしている。

そういう状態で活字を読んだり、深遠な映像作品を鑑賞しても、あまり意味はない。

日曜日はベッドでマンガを読みふけったり、公園をトボトボ散歩しながら、頭をボーッとさせることに意味があるのだ。

というわけで、今日は「カウチポテト」状態で三谷幸喜作品を立て続けに2本見る。 

まずは「有頂天ホテル」(2006年)。

たぶん見るのはこれで5回目。

5回目と言っても、だいたいいつも「ながら見」で、別のことをしていることが多い。

まあ穿つように観る映画ではないからね。

今回見て思ったこと。

松たか子の美貌は奇跡のバランスからなっている。

「有頂天ホテル」では特に、あと少し「あっち」側にズレてしまえば、たちまちカピバラさんになってしまうのではないか。

別にカピバラさんが悪いというわけではない(可愛いし)。

 

なんてことをボーッと思っているうちに映画が終わったので、ディスクを「ザ・マジックアワー」(2008年)に換える。

深津絵里が可愛い。

三谷幸喜作品では「ステキな金縛り」(2011年)でも主演していて、そっちの「ドジでバカだけど一生懸命な新米弁護士」役も可愛く演じているけれど、こっちではちゃんと「悪女」として可愛い。

でも、結局一番かわいいのが西田敏行だというのも、「ステキな金縛り」と同じ。

改めて役者さんってすごいと思う。

ちゃんと「大根芝居」や「大根役者」を意図して演じることができるんだから。

逆は不可能だ。

でも、それってやっぱり汗水流した努力によって得られた「巧さ」なんだと思う。

役者さんには、演技が「巧い」だけではなく「自然」な役者さんというものがいる。

私は演劇や芝居についてまったく明るくはない。 

でも演技の「巧さ」と演技の「自然さ」は違う。

それぐらいはわかる。
「巧さ」は練習でなんとかなる要素であるが、「自然」は持って生まれた要素である。 

たぶん、演技において「巧い」とは適切な努力さえできればほとんどすべての人間が達することができる境地だ。(もちろんその「努力」を殆どの人間はできないのだが)  

なぜこう考えるかというと、(例えそれが「床屋政談」のようなエセ批評に過ぎなくても)素人である観衆に「巧い」と批評されているからである。

批評できるということは、素人にでもその基準が理解できている(と思われている)ということだ。

だということは、そのパフォーマンスが、これこれこういう手順と継続によって「巧く」なれる(と思われている)ということである。 

それに対して演技の「自然」とは天賦の才である。 

「自然」は理路整然とした批評を展開する対象に適さない。

だって「自然」なんだから。

人為的な批評は「自然」の「自然」性を必ず言いそこなう。

だって「自然」じゃないんだから。

「自然」なパフォーマンスに関しては、そのよって立つ基準や土台がわからないので「なんか、自然だよね」としかいえない。 

それは外国語学習にもいえる。 

いくら心血を注いで努力を重ねても、初対面のネイティブから「あなたの〇〇語はとても上手ですね、まるでネイティブのようです」と言われ続ける人がいる。

片手間にテキトーに学んだ外国語でネイティブと楽しくおしゃべりに興じているうちに「オイラの国では」みたいな語句を言って初めて「え、おまえ外国人だったの?」とびっくりされる人もいる。

初対面のネイティブと話しているうちに「巧い」と褒められるということは、自ら名乗らずとも「外国人」だとバレているということである。

なぜならその人間の話す外国語は「巧い」が「自然」ではないからである。

ネイティブに「外国人」だと気づかれないということは、それほど「自然」だということである。

中国語や韓国語のように見た目だけで「ネイティブ」か「外国人」かどうかを判断しにくい人々が母語とする外国語を学ぶ場合、こういうことはよくある。

発音や文法という教科書で学べることを如何に完璧にマスターして「巧く」なったとしても、ネイティブなら絶対に口にしない言い回しを使ってしまったり、「変」な挙動をとってしまうことで、「自然」さは失われるのである。

そして当の「ネイティブ」もみずからの「自然」について把握してなどいないのである。

「巧さ」は学ぶことや論じることができるが、「自然」はそうはいかない。

 

で、まさに今さっき自分で言ったことに自ら反するようで恐縮だが、それでも「自然」について論じてみる。

私は演技の「自然さ」には二種類存在すると思う。 

つまり、ここでいう演技の「自然」さを可能にしてくれる天性の要素には、「充満する自我」か、「空虚な自我」しかないということである。  

具体性をもたせることで却ってわかりにくくなるかもしれないが、具体的に言おう。 

天性として授かった「充満する自我」が可能にしている「自然な演技」の代表はキムタクである。 

天性として授かった「空虚な自己」が可能にしている「自然な演技」の代表はココリコの田中直樹である(ついさっき思いついた)。 

奇しくもふたりとも役者が本業ではないが、役者としても活躍している。

それはたぶん二人の役者としての能力が、経験や訓練とは無関係なところにあるからである。  

キムタクはアイドルだし、ココリコ田中は芸人だ。

もちろんこの二つの職業とも演者としての自らを通すことで観客を「どこか」へ連れて行くという点において、役者的職業である。

しかしすべてのアイドルや芸人が役者としての能力に恵まれているわけではないことを考えれば、この二人には職業的エートスを離れた、なんらかの彼ら独自の才があるのではないかと問うても良い。

その問への私なりの回答が「キムタク=充満する自我」「ココリコ田中=空虚な自我」説である。 

キムタクはその充満する自我によって「何をやってもキムタク」であるが、だからこそ「キムタク」という記号として、自然かつ普遍的に作用する。  

ココリコ田中はその空虚な自我によって「演技が自然」であるが、だからこそ「田中直樹」という空虚な記号としてしか作用しない。  

きっとふたりとも素で会ってもああいう人だろうし、そういう意味では意外性が感じられないという意味で「つまらない人」なのではないかと勝手に思う。 

そしてきっとどちらも(キムタクがSMAPで田中がタイキックであるという私達の固定された印象に反して)入れ替えを試みてみれば、案外可能なのではないか。

無理かな、無理そうだな。

などと考えながら「有頂天ホテル」をもう一回流してみると、最初の方にココリコ田中がちらっと出演していることに(6回目にして)初めて気づいた。 

私は「ガキ使」が大好きなので田中さんをよく見ているし、このシーンでも結構しっかりセリフをしゃべっている割に、完全に「モブ」として自然な演技をしているため、役者そのものの自我とか存在感とかが皆無である。 

もちろん田中さんも思うところあって「空虚」さを獲得するに至ったのあろう。

「ガキ使」で暴露していたデビュー前に相方遠藤へ送った「イタい」手紙や「A級伝説」なんかを見ると、以前はだいぶ「我を出してた」し。

しかし、あそこまで「我」を消しきれるということは、やっぱり彼の「我」が本質的に「空虚」なんだと思う。(相方の演技が「臭い」のと対照的に)

なんてことをゴロゴロしながら考えた。

ストックフレーズの呪縛について

25日(金)

昨日も書いたように、この日はうちの大学の「仕事納め」の日。

午前中に事務室に行ったら、ちょうど日本語学部の先生方と事務の人たちが、日本への交換留学生選抜に関して会議を開いていた。

意見を求められたので、私の思うところを述べさせていただく。

この件についてはいろいろ思うところもあるので、またあとで書くことにする。(書かないかもしれない、忘れちゃってるかもしれないので)

夜は新年会(?)なのか「一学期お疲れ!」会なのか、はたまた「もうすぐ春節、年越しだね」の忘年会なのか、よくわからないけれど、飲み会にお誘いいただいたので参上する。 

場所はいつもの「名園」。 

とはいっても、ネーミングライツをほかのところに先に登録されちゃったらしく、改装にあわせて名前も変わっちゃった。 

しかし新しい名前には馴染みがないし、以前ほどしっくりこないので以前のまま呼称させていただくことにする。 

美食と美酒をたらふく頂く。

名前を毎度失念してしまうが、さっと揚げられた海老にニンニクのみじん切りや小葱を乗せて、そこに旨味たっぷりのオイルソースをかけた料理が大好きで、私はいつも殻ごとパクついてしまう。

こういう集まりに来ると、市販の教科書には絶対載っていない中国語が学べて、たいへん有益である。

もっとも私の中国語能力では、目の前で交わされているやりとりの全てを把握することなど不可能なのだが。

なので、基本的にこういう場で自分から口を開くことはあまりない。

ニコニコして話を聞き(理解しているふりをし)ながら、料理をパクパク食べ、勧められたらお酒をゴクゴク飲むことに徹する。

結果的に食べ過ぎる。

で、家に帰って体重計に乗って愕然とする。

昨日ポタリングで浮かせたカロリーが……。

無駄なあがきと知りつつもお風呂に浸かり汗を流し、就寝。

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26日(土)

天気がいい。

 

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それで思い出したというわけでもないが、大学に向かう道すがら、頭の中を「天気がいいから散歩をしましょう」というフレーズがグルグルまわっている。

私だけではなく「天気がいい」という言葉を耳にすると「散歩」を思い浮かべてしまう日本語学習者や日本語教育関係者は多いかと思う。

それは「天気がいいから散歩をしましょう」というフレーズが、日本語能力試験のリスニングパートで、音声確認のために、複数回流されるからだ。

なので「天気がいい」という語句を耳にしたり、蒼天を見上げるたびに、脳裏で「散歩をしましょう」というフレーズが条件反射で流れることになるのである。

このフレーズをたくさん聴いたことがあるということは、それだけ日本語能力試験を受験したり、対策のための勉強をしているということである。 

それだけこのフレーズを耳にしてきた受験生の中には、その分だけ「失敗」を重ねてきた場合も多い。

その「失敗」を重ねた人達にとって、この悪魔的洗脳フレーズはトラウマとして蘇る。

そこまで言わずとも、この「天気がいいから」は「はい、これから日本語能力試験ですよ〜」というストックフレーズとして、学生さんたちの頭に刻まれている。

出勤日毎に早朝鳴り響き、否が応でも私達を条件反射的に叩き起こす目覚ましのようなものである。

私が重慶にいたとき、日本語能力試験の会場は山の上にある四川外国語学院(現・四川外国語大学)だった。 

なので、私の学生さんたちは文字通り試験を受けるために最寄りの駅から会場まで「散歩」ならぬ「ハイキング」をすることになった(たとえ雨が降ろうと風が吹こうとである)。

前回の試験日、合肥は雨だった。 

憂鬱な気持ちで雨の匂いや湿気、人いきれでモワっとしたバスに乗り会場まで向かい、試験へのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらリスニングの問題用紙を前にしている最中、男女の声で交互に繰り返される「天気がいいから散歩をしましょう」「天気がいいから散歩をしましょう」……。

これはもはや「呪い」だね。 

ストックフレーズがもたらす「呪い」というか「倦怠感」について、私はよく理解できる。

ありがちだが、以前の私は新学期が始まると必ず「冬休み(夏休み)」の感想文を書かせていた。 

休暇の間にどのようなことを体験し、どのようなことを思い、どのように成長したかをみるのは教師としての楽しみだからだ。 

たいていの学生さんたちは一生懸命書いてきてくれた。 

しかしそうやって書いてきてくれた作文を読みすすめるにつれて少しづつ「倦怠感」を覚えることが毎回繰り返された。

それはほとんどの作文がストックフレーズからなっていたからである。

中国人学生によるストックフレーズ作文は、たいていの場合こういう書き出しから始まる。

 

「時間が経つのは本当に速いですね。もう新学期が始まりました」

 

これはあきらかに中国語的な慣用表現の直訳である

作文の授業ともなればこっちは毎週数十人近くの作文を読んで、日本語や文の流れをチェックすることになる。 

仮に学生さん一人が書いた作文一枚あたりに5分使うとすれば、50人いれば250分使うわけだ。 

当然、疲れる。 

そんな疲れた心と体にドババと降りかかる定型文の乱れ打ちは相当しんどい。 

「時間が経つのは本当に速いですね」という一文を見るたびに時間の経過が遅いと感じ、遅々として進まない仕事に心が押しつぶされそうになる。

逆の立場で考えてみれば、学生諸君にも私の気持ちがわかって頂けると思う。 

ふるさとに帰って家族や親戚に会うたびに「恋人はいるの?」「いつ結婚するの?」と「ありがち」なことを聞かれまくったら、どうだろう。 

休暇が明けて新学期の第一週目の授業に出向くと、いろんな先生から「休暇はどうでしたか?」と「ありがち」な言葉をぶつけられ続ければ、きっとうんざりするだろう(すみません、私も聞きます)。 

同じことだよ。 

例示したさっきの言葉は内容自体に気が進まないものが含まれているということももちろんある。 

が、それ以上に、それらの言葉はこれまで散々使い回されてきた「ありがち」な表現であったり、加工済みのレディメイドの言葉なのである。 

そこには「私が今ここであなただけに向けて語っている」という気持ちが感じられない。 

そう感じるから、私たちは定型文を聞いていて疲れるのだ(たぶん)。

ジャンルは違うけれども、私が学生時代に楽器をやっていた頃、みんなでセッションしながら遊んでる時に、ソロが回ってくると毎回同じようなフレーズを弾く人間が必ずいた。

だいたいはペンタトニックをいじっているだけのフレーズである。 

それをいつも得意げに繰り出すのである。

そういうのを聴くと、なんかどっと興が醒めるのよね。

私もそうだったけれど。

すみません。 

 

閑話休題

 

私たちは意外と、定型文やストックフレーズに縛られているものである。 

外国語を喋る際はなおさらそうだ。 

「お元気ですか?」と聞かれれば「おかげさまで元気です」と頭に浮かび、「天気がいいから」と聞くと「散歩をしましょう」と答えてしまう。 

しかし私たちの毎日のコンディションは一定ではない。 

そもそも私たちはそれぞれ違う存在なはずである(当たり前だね)。 

私たちは毎日元気がいいわけではないし、私たちは晴れたら散歩をしたい人ばかりではない。

ストックフレーズの恐ろしさは、そういう差異を自他共にひっくるめてしまうところにある。

とはいえ「ストックフレーズなんかいらんよ」などと簡単に済む話ではない。

「ふん、おいらはストックフレーズになんて囚われてないよ」

という反応そのものがストックフレーズだったりするからだ。

そしてストックフレーズは、実際のところかなりお手軽で、効率的で、便利なのである。

またまた音楽の話になるが、私が大学時代所属していた軽音サークルとは別のサークル(ロック系)に属するあるギタリストは、ステージで「めちゃくちゃに暴れながらメガネを落とす」という挙動を以って「ロック」を目指しながら、その動作における「メガネを落とす」位置や「髪の毛の乱れ」まで計算していると豪語していた。 

計算ずくのロックとか、ロックのストックフレーズ(というより既存の形式だな)というのも、なんだか反ロック精神的だと私は思うが、別にロックをやっていたわけでもない私は、とりあえず「なんか、変なの」と思った。

まあ、それはどうでもいい。 

それくらいストックフレーズや既存のフレームワークは強固であるしお手軽であり、よって抜け出すしたり反抗するのは簡単ではないということである。

だから、私がいまこうやって書いている文章そのものが典型的なストックフレーズや既存のフレームワークに依っている可能性だって大いにある。 

本人だけがそのことに気づかずに、偉そうなことを書き連ねているだけかもしれない(おお、怖い)。

「自分の言葉で自分の考えを話す」という言葉や考え自体、手垢がつくぐらい慣用的に使われているものである。 

そのことを承知した上で、「他人にバカというバカ」になることを覚悟の上で、それでも若いうちに自分のことについて、自分の言葉遣いで表現する努力をしたほうがいいと私は思う。 

だから今の私は作文の授業でテーマを与えないし、ストックフレーズを封印するようお願いしているのである。(テーマを与えたらネットで検索したストックフレーズやありきたりな構図で書かれた作文だらけになるから)

大事なのは自分の違和感や疑問を、少しづつ自分の言葉に置き換えていくことである。

もちろん最初は他人の言葉を真似することしかできないし、自分が本当に表現したいことを表現できないかもしれない(今の私のように)。 

そのことにもどかしさや、やるせなさを感じるかも知れない(今の私のように)。

でも、毎日コツコツと少しずつ続けることで、徐々に世界の見え方が変わってきて、自分の表現したいものが分かり始めるはずだ(たぶん)。 

朝はいきなり明けるわけではない。 

夜空と日の出の間には、かならずどっちつかずな淡いグラデーションが存在する。 

いきなり完璧なんかを求めたら何も始められない。

若い時期にこの地道な努力を怠ると、新聞や偉い学者の言うことをそのままそっくりコピーして、居酒屋で若者相手にくだを巻くオジサン、オバサンになってしまうかもしれない。 

それこそ「最近の若いやつは」なんて馬鹿でも言える定型文を使いながら。 

おお、怖い。

私はそうはなりたくない(もうなってしまっている可能性もあるが)。 

だから、こうやって自分の思い(らしきもの)をバシバシとパソコンに打ち込みながら、自分の言葉を探っているのである。

 

 

「過去は常に新しく、未来は常に懐かしい」

本学では今日が春節前の「仕事納め」。

会議や雑務に追われていた中国人の先生方や事務の職員さんたちも、あすから晴れて冬休みである。

私のような外国人教師はありがたいことに会議も雑務もないので、二週間前に授業も成績処理もさっさと終わってフリーになっている。

とはいうものの、平日は基本的に大学に来て教材研究やら語学やらしている。

最近は『新編日本語』(全四冊)という中国で最も一般的に使われている教科書を「頭から尻尾まで」チェックし、そのなかにある疑問形や質問表現を抜き書きする作業を進めている。 

四冊全て合わせれば1600頁、単元数にして80近くある教材なので、なかなか終わらない。 

自分でやり始めた作業なので愚痴を言う筋合いなどどこにもないのではあるが、たいへんつまらない。

教科書に出てくる会話や文章が涙が出るほど無味乾燥だからだ。

単に無味乾燥なだけならまだいい。 

下手に「最新」や「流行」を意識して作ったため時間経過によって腐ってしまった箇所が散見される。 

そういう箇所を「ふっ…」とか「へっ…」とか言いながら読む(「脳トレ」とかいつの話やねん)。

口が悪いと承知のうえで言うが、こういう言葉ばかり学んでいたら頭が悪くなりそうである。 

ただでさえ足りない私の頭をこれ以上バカにするわけには行かない。

しかし、実際に言葉を身体を通すことで分析してみないことには見えないものがある気がする。

そこでこうしていちいち教科書をめくりながら、記載されている疑問表現や問いをチェックし、パソコンに打ち込んでいるのである。 

おかげでこれまで日本語教科書において疑問文や問いがそのように扱われてきたか、そしてそもそもの疑問文や問いの分類や働き、意義などについて、自分の言葉が少しずつ見えてきた。 

そういう意味では地味だが意義ある作業なのだ。

だからこそ誰から頼まれたわけでもなく、お金が出るわけでもないのに、こうやって春休みなのにどこかへ遊びに行くこともなく、コツコツとやっているのである。

とはいえ、つまらんもんはつまらん。

つまらんから、磊落な心が失われているのかもしれない。

教科書中にあった文章に、ちょっと「いらっ」と引っかかった。

こんな文章である。

 

 複写機は大切な文章を書き写すという作業を無用なものにしてしまった。コンピューターは記憶の容量を一挙に拡大し、それをUSBに簡単に保存してくれるようになった。それは確かに偉大な技術の進歩である。 

 だが、人間の本質とは記憶で成り立っているのだ。人生とは記憶の集積なのである。そのように貴重な記憶の全てを機械に譲り渡してしまったら、人間にいったい何が残るだろうか。記憶など必要としない人々の群れ、それは歴史を失った人間であり、ただ現在だけを条件反射的に、あるいは要領よく生きる人たちと言っていい。二十世紀の恐ろしさ、そして、二十一世紀の何よりの不気味さは、そのような「ポスト・モダン(流行の先端にある)」人を着々と生み出していることになる――と私は思う。

(「二十一世紀の恐ろしさ」森本哲郎より)

 

 

中学生あたりが国語の感想文で書けば「頭が良く」みえるような論調の文章だ。

私が引っかかったのは、「人間の本質とは記憶で成り立っているのだ。人生とは記憶の集積なのである」という部分である。

文章を読む限り、著者は「記憶」とは実体を持ったソリッドなものだと思っているようだ。

「コンピューターは記憶の容量を一挙に拡大し、それをUSBに簡単に保存してくれるようになった」という認識からもそれがうかがえる。

しかし私はそうは思わない。

「人間の本質」と「記憶」について、私ならこう表現する。

 

人間の本質とは記憶で成り立っているというよりも、記憶を成り立たせている「なにか」が人間の本質なのである。

人生とは記憶の集積であるというより、過去との絶え間ない交流によって記憶がより豊かに創造され続けていく過程なのである。

 

記憶というものは実体的には存在しないものである。

にも関わらず、絶えず今の私から絶えず呼び出されることにより、その都度新しいものとして記憶は存在していくものである。

記憶とは過去のものではなく、「いま、ここ、わたし」を足がかりに過去を創造的に再構築したものだ。

過去を想うことは過去を呼び出すことである。

そしてこの過去を呼び出すという作業は、呼び出す主体としての私の態度次第でその作業自体が創造的な営みになる。

ここでいう私の態度とは常に「学ぼう」とか「まだあるんじゃない?」とか「もっと新しいものはないかしら」とか「もうそれ飽き飽きだよ」という乾きに裏打ちされたものである。

もし私がその乾きに耐えられず、なにごとからでも新しみを自ら引き出そうとすれば、ふとした瞬間に思い出される(つまり創造的に再構築される)過去の方が、乾きを覚えず何も引き出そうとしないことで成り立つ「いま、ここ、わたし」という狭窄な視点をただ単に伸ばしていくことで想像される未来よりも、斬新な印象を残すこともある。

だから「過去は常に新しく、未来は常に懐かしい」(by森山大道)のである(ご本人が込めた意味は知らないが)。

私が見る限り、著者は先の文章で単なる「情報」と「記憶」とを混用している。

「記憶」と「情報」は違う。

たとえば私は修論を書くときに大量の文献や資料をコピーしたりスキャンしてデータ化したが、その殆どはもう捨ててしまった。

それはあくまで修論執筆という、その当時の私にとってのテクニカルな問題に解答するために必要だった「情報」に過ぎないからである。 

その論題をそれ以上追求する気がもうなくなってしまった以上、それらの「情報」は不要である。 

手書きで複写したものでも、それが「情報」に過ぎない場合、私はそれを簡単に忘却するし、場所を取るようだったら迷わず捨てる。

それは手書きで複写したかどうかとは関係がない。

私の態度の問題なのだから。

しかし例えば、修論執筆中にちらっと目にしただけだったり、熟読したもののその場では気付かなかった資料の意味が、ふとした瞬間に全く違う文脈・意味合いにおいて「あっ、あれってそういう意味だったのか」と分かる瞬間がある。 

この「あれ」はたんなる「情報」ではなく「記憶」である。

「そういう意味」が私の創造である。 

そしてそのような瞬間が訪れるかどうかに、手で複写したかコピーで済ませたかという問題が本質的に関係していると私は思わない。

「あっ、これいい」と思った文章をコピーしたりスキャンしたりしてUSBに保存した場合でも、なにかの折にそれを何度も読み返して、頭の中で反芻していけば、それはたんなる「情報」ではなく「記憶」として私の一部になってゆく。

その「記憶」を繰り返し呼び出しながら、言葉にならないものを言葉にしていく作業、それが「創造」ではないだろうか。

重ねていうが、そういうプロセスが可能かどうかという問題と「大切な文章」を自ら書き写すかコピーで済ませるかという問題とは、本質的に関係がないものである。

私の態度の問題なのだから。

いかなる媒体であろうとも、それを熟読していなければ「情報」にとどまるし、とどまりつづける。

いかなる媒体であろうとも、それを熟読していれば(たとえ読んだことを忘れていても)いつか「記憶」として蘇る。

ショーペンハウアーはこう言っている。

 

熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

 (ショウペンハウエル『読書について』斎藤忍随訳、岩波文庫、128-129頁)

 

彼がこの文章で何を言いたかったのか、それは私にはわからない。 

わからない以上、「ショーペンハウアーが言いたいのはこういうことだ」という語り口を私は採用しない。(もしあの厭世爺さんが生きていて、そういう語り口を耳にしたら、きっと「お前みたいなバカが俺の名を騙って勝手なこと言うな!」と怒り狂うと思う)

しかし、たとえばこの文章を目にして私が「あっ、これいい」と思ったということは何人にも否定できない事実である。

だから、私はその「いいな」をなんとか自分の言葉にしようとする。

「いいな」だけだとバカみたいだからだ。

「ショーペンハウアーが言いたいのは」だと「虎の威をかる狐」みたいでやましいからだ。

「いいな」をなんとか自分の言葉にしようとする際に、私は絶えず「いいな」と思った文章を反芻し、イメージし、断片的に言語化し、それらを私の感じた「いいな」と照らし合わせながら、自分の言葉を形作っていく。 

そういう感受と思考の過程を経れば、最初に入力された文章はすでに「情報」ではなく「記憶」と呼ばれるようなものである。 

そして私が先に述べたように「記憶」が「今の私から絶えず呼び出されることにより、その都度新しいものとして存在するもの」だとすれば、「大切な文章」とは何度読んでもその度に新たな気づきや発見を与えてくれる文章である。

当然ながら文章が変化しているわけではない。

私の「呼び出し方」が、もしくは「呼び出す私」そのものが、その都度変化しているのである(大抵は無意識のうちに)。

繰り返すが、それは手で複写して保存するかどうか、コピペしてUSBに保存するかどうかとは、本質的には関係がない。

手で複写しようがコピペしようが、それはどちらも「情報」を「食べた」だけである。 

「消化」作業そのものではない。 

それとも、「いや、手で複写するということはいったん文章を読んでいるわけだから、自分の記憶や思想として消化しやすいんだよ」といいたいのだろうか。

確かに。

「消化」作業において、手で(キーボードも含めて)自ら複写する作業が大切な意味を持つということなら、私はその通りだと思う。

なぜなら、人間の思考にとって「書く」という作業は非常に重要な作業だからだ。

「書く」とは泥濘にはまったタイヤに噛ませる一枚の板のようなものである。

思考とは泥濘にハマりながら空回りするタイヤである。

いくら考えても、それを記録しておかなければ、主観的には「考えている」ようでいて、その実その場で空転しつづけているだけである。

だから、「大切な文章」とか「あっ、これいい」と思った文章を自ら引用したり抜き書きしたりすることは、言うまでもなく意義があることである。 

言うまでもないということは、言われるまでもないということである。

引用した論考に足りないのは、「消化」を巡る部分である。

そして「消化」を本質的に決定づけるのは、技術の進歩や時代の潮流などではない。

私たちの態度である。

「情報」の入力とは自らの思考が伴って初めて意義を持つことであって、ただ単に手で複写すれば身になり「記憶」になるなどというような簡単なものではない。

以前見た映画「うなぎ」のなかで、刑務所から出所後自らの罪を「反省」し写経に明け暮れる毎日を過ごす男に向かって、その男と刑務所で面識があった主人公(役所広司)が「お前はお経を写すことで自己満足しているだけだろ」みたいな事を言っていた。(ように記憶しているが間違っているかもしれない) 

私がここで言いたいのも同じようなことである。

著者は自らが手で複写した全てのものごとを「記憶」しているのだろうか。

そんなことはないはずである。

第一、私は「複写機は大切な文章を書き写すという作業を無用なものにしてしまった。」という認識に賛同しない。

コピー機があろうとなかろうと、私は私にとって「大切な文章」は必ず書き写す(教科書から疑問表現のみを抜き書しているように)。

コピー機を使うのは、まずは「情報」として必要としている場合である。

もちろん「情報」としてコピーしたものが「お、これはおいらにとって大切だぜ」とわかったあとは、手書きやパソコンで複写することもある。

そして目の前の文章が「情報」にとどまるのか、それとも「記憶」として昇華されるのか、それはその文章を目にしている瞬間にはわからないのである。

「記憶」の元となるものごとというものは、未来のある時点に呼び出されることによって初めて「あ、あれは記憶すべきことだったんだな」と遡及的に認知されるからだ。

 

「貴重な記憶の全てを機械に譲り渡してしまったら、人間にいったい何が残るだろうか」というのも、よく意味がわからない。 

コンピューター時代以前から、人間は「情報」を自分の外部に存在する媒体(石とか紙とか)に保存していたはずである。 

それとも著者にとって、現代人はすべての貴重な「記憶」を身体の外に位置する媒体に保存しているように見えるのだろうか(マトリックスみたいに)。

よくわからない。 

もし私がこの教科書を使っている学生で、教師になにか聞かれたとしたら、とりあえず「人間の記憶は大切だと思います」とか「技術を上手く使いこなさなければなりません」とか、そういう毒にも薬にもならないような感想を行ってその場をしのぐだろうな。

なんの成長ももたらさないけれど、無難だし。

 

長々と書いてきたが、私が先の文章に言いたいことは二つ。

①「大切な文章」をコピーで済ませるかどうかは属人的な態度の問題であって、「大切な文章」をコピーで済ませるような人間は複写機がない時代にあってもわざわざ手書きなんかしない。

②手で複写することは理解の機会を増やすことにはつながるかもしれないけれど、大事なのは熟読してものにしたかどうかでしょ。

③そこを論じずに「やれ技術の発展で」とか「ああポストモダンは」とか言うのはどうなんだろうね。

④だって熟読せず熟慮しない人間なんて(それこそショーペンハウエルが著書の中で罵倒しまくっているように)昔からいるんだからさ。

私の目には、簡単に「時代」や「技術」のせいにしてものを考え説明するような人間こそ、典型的な「条件反射的に、あるいは要領よく生きる人」にみえる。

そういう人間が多数を占める時代は、何世紀だろうと「恐ろしい」時代だと私は思う。

 

 

天気がいいのでポタリング。

昨日に引き続き晴天である。 
銀行に行き、昨日の残りの日本円を引き換えたあと、春遊を愉しむべくポタリングにでる。 
「スポーツドリンクを薄めたもの」と「温めた豆乳でプロテインを割ったもの」をボトルに詰め、いざ路上へ。 
いつもならば東に向かいそのあと南下するのだが、今日はまず西に向かうことにする。
理由はない。 
ただなんとなく気持ち良さそうだったからである。
初めて通る道だが、信号も少なく路面状態も良いし、車も少ない。 
心地よい日差しを全身に浴びながら、植物園付近まで向かう。
合肥植物園は植生や湿地が美しいだけでなく園内でBBQができる素晴らしい植物園なのだが、リニューアルのため今月末までお休みである。 
来学期はぜひここで「会話」の授業を受けている学生諸君とBBQをしようと思いつく。
他大学とコラボしても楽しそう。 
お、これいいね。 
安外のK先生、いかがでしょう。もしこれを見てたらご連絡ください。 
植物園を過ぎ、以前路線バスで「遠足」したダム湖の縁を添いながら西へ西へと向かう。 
大蜀山という合肥のシンボル的な山を左手に望みながら空港方面へと走る。
さっきK先生のことが思い浮かんだので、安徽外国語学院周辺まで行こうと決定。 
百度にガイドを頼む。
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…。
はい、ガイドに嘘つかれました。 
なんかよくわからない山村を突っ切る道に案内された。 
路面がびっくりするぐらいガタガタ。
舗装されているのだが、その舗装がガタガタなのである。 
そこをダンプがガンガン通る。 
見たところ山を切り開いて工場用地にしているらしい。 
ダンプはまだしも、こんなにガタガタだとパンクとお尻が心配である。 
なのでスピードを落としてノロノロ走る。 
ガイドに騙されて迷い込んだとはいえ、田舎の風景は美しい。 
ときどきどこからかぷーんと堆肥の匂いが漂ってきたり、時を告げる雄鶏の声が鋭く響く。 
それらも故郷を思い起こさせてくれて、なんだか良い。 
40キロ地点で屋台を発見。 
ちょうどお昼時で空腹を覚えていたので、杂酱面(ジャージャ麺)を注文。 
一杯六元(安い)。
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出てきたのは、イメージしていたのとはなんか違う。
しかし旨い。
屋台なのでダンプが土煙を巻き上げながらズカズカ通る路肩で麺をすするのだが、麺がモチモチしていて美味である。
ズルズルとジャージャ麺を食していると、休暇に入った地元の中学生らしき集団が大挙して押し寄せてきて、中学生らしい態度で中学生らしい会話を中学生らしく(やかましく)展開し始める。 
頭が痛くなってきたのでさっさと麺を平らげ出発する。 
特筆すべきこともないままま十数キロ走り、安外を過ぎたところの突き当りにある公園で一休み。 
半時ほど芝生で陽光を満喫する。
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で、折り返し。 
自転車を漕ぐのにも飽きたので(おい)、ケータイから音楽を流しながら(イヤフォンじゃないよ)、家を目指す。 
なぜだか久しぶりにアジカンが聴きたくなったので、「ソルファ」と「君繋ファイブエム」を流しながら走る。 
さて、自転車乗りにとって歩道を走るか、車道を走るかというのは状況判断を迫られる難しい問題である。 
歩道があまりに凸凹だし歩行者が多かったので、一時的に車道の隅っこを走っていたら、若いおまわりさんに停められた。 
「身分証は?」 
「ないです」
「公民は身分証を必ず…」
「すみません、外国人なんです」
「パスポートは?」
「今は持ってないです、すみません」
「なんで歩道を走らないんだ!」 
「すみません」 
無事お咎めなく開放されたが、いつもはそんなこと気にしないのに、なんで今日に限ってそんなに厳しく…とブツブツ(あ、これって違反者の自己正当化フレーズだな)。
ごめんなさい。
以後気をつけます。
ということで、無事帰宅。 
走行距離70キロ弱。 
貧脚を鍛えねば。 

年年岁岁花相似

朝一で銀行へ行く。

来月日本に一時帰国するので日本円を調達しなければならない。

中国の決まりでは外貨への換金は身分証が必要となる。 

身分証としてパスポートを使って換金する場合、一日の両替制限が500ドルとのことである。

私は外国人なので、当然パスポートを使って換金することになる。

私は今回10万円ほど用意するつもりなのだが、10万円というとドル換算で約900ドルになる。

ということは銀行へ二回に分けて今日と明日の2日行かねばならない。

えー。 

面倒くさ。

しかし仕方がない。

いつもなら学生さんに頼んで一緒に銀行まで来ていただき、彼らの身分証(パスポートより両替制限金額が高い)で両替してもらっている。 

しかし今回はぼんやりして日本に帰ることについて失念しているうちに、学生諸君はみんな実家に帰ってしまった。 

というわけで、ひとりで銀行へ。

かくかくしかじかこれこれこういうわけで、人民元を日本円に替えたい旨説明する。

窓口に行き行員さんに中国語で話しかけると、なぜか英語で応答してきて、そのまま彼は英語を話し私はそれに中国語で返すという、不思議な会話をする。

私も英語で返せばいいのだろが、頭が中国語モードになっていて面倒くさいので中国語を通す。 

大学でもときどきこういうことがある。

むこうの先生は私が外国人だからか手を挙げて“Hi”と挨拶してくださるのだが、私は日本的な会釈をしながら“你好!”と返す。 

いろいろごちゃごちゃである。 

ごちゃごちゃといえば思い出した。 

英語と中国語の切り替えでいちばん混乱したのが、以前の勤務校の英語の外国人教師と廊下ですれ違うときであった。 

もちろん彼は英語ネイティブなのだが、中国語も非常に流暢に喋るので、毎回向こうから挨拶をしてこようとするたびに「どっちだ、どっちで話しかけてくるんだ?」と身構えてしまった。 

頭を英語モードにして、これから展開されるであろう英会話を先読みして、久しく開けていないかび臭い「英語脳」からストックフレーズを引き出して準備しておいたのに、そこへ中国語で挨拶もなしに“你过年回国不?”(春節は国に帰るの?)なんて来られると、いったん英語モードになった頭を中国語モードに切り替える際に一瞬「あ、やべえ。中国語だった。えーと…」的な日本語モードが支配することで外国語が出てこなくなる「空白」が発生してしまう。 

彼は会うたびに英語と中国語をランダムに使い分ける面白い人だったのだが、結果的に会うたびに私は「ごちゃごちゃ」してしまった。

同じようなことが韓国に行ったときにもあった。

仁川国際空港から中国に帰るとき、手荷物検査で係のお姉さんに韓国語で話しかけられた。 

私は韓国語はわからないのでキョトンとしていたら、そのお姉さんは私が手にしていた日本のパスポートを見て全てを察したようで、素敵な笑顔を浮かべながら、英語で「お荷物の中にモバイルバッテリーはありませんか?」とお尋ねになった。 

私は思わずそれに“没有”と中国語で答えた。 

韓国の空港で、韓国人に英語で話しかけられた日本パスポートを手にする日本人らしき男が、中国語で答える。 

ごちゃごちゃだね。

きっと私の足りない頭の中では言語領域が母語と外国語というふうに二元的に構成されており、「外国語」のなかに英語も中国語も全て一緒くたに放り込まれているのだろう。 

で、たぶん今の私の「外国語脳」のなかでは英語より中国語がドミナントな地位を占めているのだ。 

語学の才のなさを嘆く。

よって「これじゃいかん」と思い、最近は中国語で英語を(もしくは英語で中国語を)勉強している。 

でもこれ疲れるのよね。

 

何はともあれ、とりあえず5万替えたので、残りは明日。

Bye.

 

とことこ歩いて大学へ。 

最近天気がいい日々が続いている。

大学のグラウンドを覗くと、日の光に誘われた留学生たち(たぶんインド人)がクリケットに興じている

日向ではねこさんたちが気持ちよさそうに惰眠をむさぼっている。 

キャンパスでは気が早い梅の蕾が遠慮がちにほころび始めている。

 

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年年岁岁花相似,岁岁年年人不同。(年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず)。

春節の時期は梅が綺麗である。 

とくにこの時期は蝋梅が芳しい。

もうすぐ私は中国に来て6回目の春節を迎える。 

古詩に読まれているとおり、梅は変わらず美しいが、ほんとうにあっという間に6年である。

とくに合肥にきてからの3年はほんとうに「歳々年々人同じからず」という思いである。

感慨にふけるのはこのぐらいにして、仕事をしなければ。 

ポケットに文庫本を放り込んでふらっと散歩に出たり、河川敷で何も考えずぼーっとお日様に当たったりするには絶好の一日だが、私には考えなければいけないことがある。 

やらなければいけない調べものや、読まなければならない本も山積みだ。 

時間があるうちに語学もやっておかねばならぬ。 

なので心地よい天気を楽しむという誘惑に打ち勝ち、いざ机に向かうのである。 

そうやって書を開いてこりこりと勉強を進める。 

そんななかでふと目にした一言。 

“All work and no play makes Jack a dull boy”

おおお、これは何たる真理だろうか。

まったくそのとおりである。

勉学に勤しんで却ってバカになってしまっては元も子もない。 

むむむむ。 

私もこうしてはいられない。

というわけで、天気がいいので外に遊びに行ってきます。

私のこういう意志薄弱さは何年経っても変わらない。

 

 

久しぶりのポタリング。

19日(土)
気温が低くて曇り空。 
にもかかわらず久しぶりに自転車にのりたくなったので、MERIDAのロードバイクを引っ張り出し路上へ。
時々ローラーには乗っていたが外を走るのは本当に久しぶりである。
以前住んでいたマンションは郊外にあり、車も少なく、付近に一周5キロの周回コースもあった。 
なので私の中の自転車熱がずいぶん高く、頻繁にポタリングやロングランに出ていた。 
今住んでいるところは旧市街地なので道も狭く車も多く「わちゃわちゃ」していて、あまり自転車に乗る気がしない。 
車や歩行者を気にせずにスピードを出せる道まで、十数キロかかるから、あまりロングランにも出なくなってしまった。
とはいえ、久しぶりに外を走ってみよう。
もちろん安全第一で。 
まずは幹線道路に沿って市街地を抜ける。
車も多いし歩行者も多い。
自然とペースは時速16キロ前後になる(おばさんたちの原付きと同じぐらい)。
前後左右に気を配りながら、なんとか市街地を抜ける。
高速鉄道の駅付近から、もっと太い幹線道路に沿って東へ向かう。 
合肥は内陸の都市だが川が流れているので港がある。 
その港周辺で南肥河と合流、河川敷を走る。
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この川は自宅のすぐそばを流れていて、よく散歩している川である。 
河川敷には車も人間も見られないので、ペースを時速25キロ前後まで上げて風を感じながら走る。
この川は巣湖という「中国五大淡水湖」に注いでる。 
巣湖は琵琶湖より大きい。 
巣湖は自転車で何度も訪れたことがある。
とても風光明媚な場所で、今回も行こうかと思っていたのだが、お腹が空いてきたし補給食も持ち合わせていなかったので、今日は湖まで行かずに折り返すことにする。
川の流れや行き交う船、工場などを横目にそのまま河川敷を10キロほど南下し湿地公園で折り返し。
帰りはぶどう園や野菜畑の真ん中を突っ切る農道を北上し、港に戻る。 
折しも飯時。港の近くに長距離トラックの運転手や港の労働者に昼食をだす屋台が出ていたので、そこで「牛肉麺」(10元)を食べる。 
予想に反して野菜が具沢山で旨い。 
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栄養補給も終わったので、さっさと家路につく。 
折り返しコースの難点は「行きはウキウキ、帰りは飽きる」である。 
ぐるっと大回りする別のコースを選ぶという手もあるが、体力的にきつい。
体力的余裕が無くなってきて、コースに飽きが来ているときが一番危ない。 
しっかり気をつけて走りながら、無事に帰宅。
三時間半で70キロ弱走った。
以前は100キロぐらいは平気で走っていたのだが、運動不足が祟ってしまい、この体たらくである。
これから少しづつ脚を鍛え直し、暖かくなってきたら菜の花を見ながら巣湖を一周しようと決意。

20日(日)

前日久しぶりにそこそこ走ったので一日中ゴロゴロして過ごす。
なぜだか突然仲間由紀恵を見たくなったので、久しぶりに「TRICK」シーズン1を見る。
これは同僚のK先生からお借りしたもの。
自分の父親の敵3人を呪い殺す双子の話を見ていたら、やたら牛乳を飲み干したくなってきた。
思わず牛乳を飲みたくなる作品といえば、私の脳裏をよぎるのは「Leon」と「銀の匙」ぐらいである。
思わずスーパーに牛乳を買いに走ってしまったよ(今日は外に一歩も出ないつもりだったのに)。 
とはいえ、あいかわらず仲間由紀恵(というより山田)の「えへへへ」は可愛かったし、阿部寛はぶっ飛んでた。
「TRICK」はいいね(何も教訓とか啓発とかはないけれど)。

よそわしか(長崎弁です)。

お弁当を食べながらニュースをチェックしていたら、ふるさとに関するこんなニュースを目にした。

 

「愛人やろもん」長崎新聞社長が性的言動 会社側、セクハラ否定

 長崎新聞社(長崎市)の徳永英彦社長(59)が昨年11月、長崎市内の懇親会で部下の女性に性的な言動をしていたことが分かった。同社は「言動は不適切だが女性に被害者感情がない」としてセクハラには当たらないと判断、処分はしていない。徳永氏は昨年12月、常務から社長に就任した。

 同社によると徳永氏は昨年11月30日、社長就任を祝う懇親会で酒をつぎに来た女性社員に対し、隣の男性上司の名前を出し「(上司の)愛人やろもん」「もうやったとや」と発言、腰を振る卑猥(ひわい)な動作をしてみせた。

 こうした状況を把握した西日本新聞の指摘を受け、長崎新聞社は出席者の一部から聞き取りを実施。一連の言動があったことを確認した上で、第三者の弁護士に意見を求めた。今月11日付で弁護士から同社に出された意見書は徳永氏の言動を「品性に悖(もと)る」としつつ、女性に被害者意識がない、懇親会参加者に不快感を持った人がいない-として「法的な意味でのセクハラには当たらない」とした。

 佐藤烈総務局長は「発言は極めて下品。意識が低かった」とコメント。徳永氏は「余計な仕事をさせて申し訳ない」と話しているという。徳永氏は1983年入社、報道本部長などを歴任した。

 セクハラ問題に詳しい福岡県弁護士会の郷田真樹弁護士は「法的なセクハラには当たらなくとも、社会常識としては不適切。今回の言動を問題視しない社内の風潮を改善すべきだ」としている。

「愛人やろもん」長崎新聞社長が性的言動 会社側、セクハラ否定(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

 

長崎は私が生を受けて高校卒業まで18年過ごした第一のふるさとである。

それに私は昔ジャーナリズムの世界に興味を持ち、新聞社の入社試験を全国紙一社、地方紙一社受けたこともある(残念ながらご縁がなく、思いがけなくいまこうして海外で教師になっているわけだが)。

だから興味を持って読んだ。

そのうえで、この記事で知りうる内容にもとづき、この記事で述べられている情報に誤りがないという前提の上で、愚見を記す。

 

私の考えを一言で言えば、この社長や経営陣に足りないのは品性ではなく知性である。

この騒ぎを起こした社長や、それに対する上層部の問題は「品性に悖る」ことではない。 

「不快に思った人間がその場にいなかった」ことや「法的に問題がない」ことをもってメディアに関わる人間が自らの責任を問わない姿勢や、検証し自省するという非常に重要な知的行いを当の社長が「余計な仕事」だと認識していることこそが問題ではないだろうか。 

なぜ私がそう思うかというと、その「余計な仕事」こそがメディアやジャーナリストの大事なお仕事であると私は考えるからだ。

報道本部長を務めたこの社長や上層部の幾人かは「その場の人間は問題だと思っていない」ことや「法的には問題ない」ことに「本当に?」と感性を働かせながら記事を書くことを生業とすることで、これまでご飯を食べてきたはずである。

「火のないところに火をつける」と揶揄されることもあるが、それでも「その場の人間が不快には思っていないこと」や「法的に問題がないこと」になんらかの問題を感じれば、取材をして実像を描き、問いを提起する。 

ジャーナリズムってそういうものではないのか。

それがジャーナリストの大事な仕事ではないのだろうか。

そしてこの人たちはジャーナリストではないのだろうか。

自分が他人に対して日常的にやっていることを自分たちそのものには問わないことに自分で矛盾を感じられないとしたら、それはその人間には知性が欠けているからである(私も含めて)。  

もし、その矛盾に気づいていて「いや、これが商売だから」知らんぷりしているのなら、足りないのは品性でも知性でもなく恥じらいである。

 

私が大学院生だった頃、ある全国紙の記者とお酒を飲む機会があった。 

私はもともと学部時代に倫理学を専攻しており、メディア倫理やジャーナリズム倫理学もすこし齧っていた。 

なので、新聞ジャーナリズムの現状や問題について私が思うところを述べた。 

するとその記者はうすら笑いを浮かべながらこう返した。 

「いや、俺たちジャーナリストじゃなくて『ブンヤ』だから」

「ブンヤ」というのはご存知のとおり(ご存知ではない方には以下に述べるとおり)「新聞屋」の略語であり、「新聞記者」を意味する俗語である。

私の理解では、この言葉は使い方によっては蔑称にもなるし、謙遜表現にもなる。 

蔑称としては「ジャーナリストとか言っているけど、おまえはたかだか新聞記者だろ」という意味合いを持つし、謙遜としては「いえいえ、ジャーナリストなんて立派なものではありません」という意味合いを持つ。

そのときの彼の「ブンヤ」という言葉には、明らかに「いや、これが商売だから」「崇高なジャーナリストとしての理念とか、そういうのが実際なんの役に立つの?」という開き直りが強く含まれていた。

すくなくとも私はそう受け取った。

そして「うわ、汚い」と思った。

なぜなら、そういう言葉を発する「悪」を暴くことを建前とする生業に従事しているはずの彼が発した「いや、これが商売だから」という言葉や態度のうちに、恥らいやためらいを全く感じとることができなかったからである。

誤解を避けるために言うが、別にそれでもいいと思う。

人間は理念だけでお腹が膨らむわけではない。

私だって「先生」と呼ばれる仕事をしているが、たぶん私のことを「センセイ(笑)」と心の底で思いながら先生づけしている人だっているはずだ。 

それは私の不徳の致すところ、実力不足であって申し開きなどできない。 

しかし、私は他人から教師という職業、教育という「商売」について耳が痛いことを言われた時に、「いや、これが商売だから」「俺はセンセイ(笑)だから」などとは決して言わない。

別に私は崇高な理念からそうするわけではない。 

単にそれが「恥ずかしい」と思うからである。

「いや、これが商売だから」という言葉は、含羞やためらいとともに口にしたほうがいいと思う。 

すくなくともその言葉がでてくる背景の一端は、自分の無力さによるものなんだからさ。

 

この記事を読んで、その時に感じた「うわ、汚い」という思いが蘇ってきた。

もちろん以上に述べた思いは私の主観的に感受したことに過ぎない。

最初にも書いたとおり、記事でわかることを前提にしているので、かなり偏った事を書いている可能性が高い。 

だけど、私が言いたいことは簡単なことである。

人のことを書いてご飯を食べている人たちなんだから、人一倍自分たちには厳しくあって欲しい。

そう望むのは、理不尽なことだろうか。 

私は別に「処罰せよ」とか「クビにしろ」なんてことを書いているわけではない。

「もっとほかの言い訳なかったの?」と書いているだけである。

 

九州のブロック紙である西日本新聞がこういう記事を出した。

今調べてみたら、全国紙も「朝毎読」の三大紙がネットで報じている。

長崎新聞社長がセクハラ発言か 女性社員に「愛人やろうもん」(毎日新聞) - goo ニュース

news.goo.ne.jp

長崎新聞社長が性的発言 「セクハラ当たらず」処分せず(朝日新聞) - goo ニュース

なので、今私が調べた限りではみられないが、今後長崎新聞はなんらかの反応をするだろう。 

規模の小さな地方紙だからちょっと遅れるかもしれないけれど、自社記事で報じるはずだ。

もちろん自社の醜聞なので、含羞の色が浮かんだ記事で十分だし、きまりがわるい「本社の見解」でもいい。

それでも何らかの反応はあるはずだ。 

一長崎県人として、ジャーナリストとしての誠実な言葉を期待している。 

もしそれがみられないならば、私の思いを長崎弁で言うならば、ただ一言。

「よそわしか~」(汚い)。 

 

 

こんな文章書いているから、お弁当がすっかり冷めちゃったよ。

 

1月21日 追記

ブログを書いた翌日19日に長崎新聞が「おわび」の記事を出していたので、引用しておく。

 

長崎新聞社の徳永英彦社長の不適切な性的言動が、テレビや新聞などで報じられました。不適切な言動があったのは事実であり、県民、読者の皆さまに深くおわびするとともに、事実関係や経緯などについてご報告いたします。
 徳永社長が、社長に内定していた昨年11月30日、長崎市内の飲食店で開かれた自身の職場送別会で、セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントに当たる言動をしていたのではとの外部からの指摘を受け、参加者に聞き取り調査を実施しました。
 調査の結果、当時、常務取締役販売担当兼営業局長だった徳永社長は、酒をつぎにきた男性社員とその部下の女性社員に対し、「(2人は)愛人やろもん」などと性的な関係があるかのような発言をし、腰を振る卑猥(ひわい)な動作をしていたことが判明しました。
 聞き取りをした2人に精神的な苦痛を受けた認識はありませんでした。鑑定依頼した第三者の弁護士は、2人に被害者意識がないことなどからハラスメントと判断することはできないとする一方で、言動については「品性に悖(もと)る」ものという厳しい評価を示しました。
 読者の皆さま、並びに関係者の皆さまに不快な思いをさせ、多大なご迷惑をお掛けしたことに対しまして、深くおわび申し上げます。

 株式会社 長崎新聞社

◎徳永英彦社長のコメント

 自分の不適切な言動でお騒がせし、大変申し訳ありません。反省し、二度とこのようなことがないよう十分注意してまいります。

 

www.nagasaki-np.co.jp