よそわしか(長崎弁です)。
お弁当を食べながらニュースをチェックしていたら、ふるさとに関するこんなニュースを目にした。
「愛人やろもん」長崎新聞社長が性的言動 会社側、セクハラ否定
長崎新聞社(長崎市)の徳永英彦社長(59)が昨年11月、長崎市内の懇親会で部下の女性に性的な言動をしていたことが分かった。同社は「言動は不適切だが女性に被害者感情がない」としてセクハラには当たらないと判断、処分はしていない。徳永氏は昨年12月、常務から社長に就任した。
同社によると徳永氏は昨年11月30日、社長就任を祝う懇親会で酒をつぎに来た女性社員に対し、隣の男性上司の名前を出し「(上司の)愛人やろもん」「もうやったとや」と発言、腰を振る卑猥(ひわい)な動作をしてみせた。
こうした状況を把握した西日本新聞の指摘を受け、長崎新聞社は出席者の一部から聞き取りを実施。一連の言動があったことを確認した上で、第三者の弁護士に意見を求めた。今月11日付で弁護士から同社に出された意見書は徳永氏の言動を「品性に悖(もと)る」としつつ、女性に被害者意識がない、懇親会参加者に不快感を持った人がいない-として「法的な意味でのセクハラには当たらない」とした。
佐藤烈総務局長は「発言は極めて下品。意識が低かった」とコメント。徳永氏は「余計な仕事をさせて申し訳ない」と話しているという。徳永氏は1983年入社、報道本部長などを歴任した。
セクハラ問題に詳しい福岡県弁護士会の郷田真樹弁護士は「法的なセクハラには当たらなくとも、社会常識としては不適切。今回の言動を問題視しない社内の風潮を改善すべきだ」としている。
「愛人やろもん」長崎新聞社長が性的言動 会社側、セクハラ否定(西日本新聞) - Yahoo!ニュース
長崎は私が生を受けて高校卒業まで18年過ごした第一のふるさとである。
それに私は昔ジャーナリズムの世界に興味を持ち、新聞社の入社試験を全国紙一社、地方紙一社受けたこともある(残念ながらご縁がなく、思いがけなくいまこうして海外で教師になっているわけだが)。
だから興味を持って読んだ。
そのうえで、この記事で知りうる内容にもとづき、この記事で述べられている情報に誤りがないという前提の上で、愚見を記す。
私の考えを一言で言えば、この社長や経営陣に足りないのは品性ではなく知性である。
この騒ぎを起こした社長や、それに対する上層部の問題は「品性に悖る」ことではない。
「不快に思った人間がその場にいなかった」ことや「法的に問題がない」ことをもってメディアに関わる人間が自らの責任を問わない姿勢や、検証し自省するという非常に重要な知的行いを当の社長が「余計な仕事」だと認識していることこそが問題ではないだろうか。
なぜ私がそう思うかというと、その「余計な仕事」こそがメディアやジャーナリストの大事なお仕事であると私は考えるからだ。
報道本部長を務めたこの社長や上層部の幾人かは「その場の人間は問題だと思っていない」ことや「法的には問題ない」ことに「本当に?」と感性を働かせながら記事を書くことを生業とすることで、これまでご飯を食べてきたはずである。
「火のないところに火をつける」と揶揄されることもあるが、それでも「その場の人間が不快には思っていないこと」や「法的に問題がないこと」になんらかの問題を感じれば、取材をして実像を描き、問いを提起する。
ジャーナリズムってそういうものではないのか。
それがジャーナリストの大事な仕事ではないのだろうか。
そしてこの人たちはジャーナリストではないのだろうか。
自分が他人に対して日常的にやっていることを自分たちそのものには問わないことに自分で矛盾を感じられないとしたら、それはその人間には知性が欠けているからである(私も含めて)。
もし、その矛盾に気づいていて「いや、これが商売だから」知らんぷりしているのなら、足りないのは品性でも知性でもなく恥じらいである。
私が大学院生だった頃、ある全国紙の記者とお酒を飲む機会があった。
私はもともと学部時代に倫理学を専攻しており、メディア倫理やジャーナリズム倫理学もすこし齧っていた。
なので、新聞ジャーナリズムの現状や問題について私が思うところを述べた。
するとその記者はうすら笑いを浮かべながらこう返した。
「いや、俺たちジャーナリストじゃなくて『ブンヤ』だから」
「ブンヤ」というのはご存知のとおり(ご存知ではない方には以下に述べるとおり)「新聞屋」の略語であり、「新聞記者」を意味する俗語である。
私の理解では、この言葉は使い方によっては蔑称にもなるし、謙遜表現にもなる。
蔑称としては「ジャーナリストとか言っているけど、おまえはたかだか新聞記者だろ」という意味合いを持つし、謙遜としては「いえいえ、ジャーナリストなんて立派なものではありません」という意味合いを持つ。
そのときの彼の「ブンヤ」という言葉には、明らかに「いや、これが商売だから」「崇高なジャーナリストとしての理念とか、そういうのが実際なんの役に立つの?」という開き直りが強く含まれていた。
すくなくとも私はそう受け取った。
そして「うわ、汚い」と思った。
なぜなら、そういう言葉を発する「悪」を暴くことを建前とする生業に従事しているはずの彼が発した「いや、これが商売だから」という言葉や態度のうちに、恥らいやためらいを全く感じとることができなかったからである。
誤解を避けるために言うが、別にそれでもいいと思う。
人間は理念だけでお腹が膨らむわけではない。
私だって「先生」と呼ばれる仕事をしているが、たぶん私のことを「センセイ(笑)」と心の底で思いながら先生づけしている人だっているはずだ。
それは私の不徳の致すところ、実力不足であって申し開きなどできない。
しかし、私は他人から教師という職業、教育という「商売」について耳が痛いことを言われた時に、「いや、これが商売だから」「俺はセンセイ(笑)だから」などとは決して言わない。
別に私は崇高な理念からそうするわけではない。
単にそれが「恥ずかしい」と思うからである。
「いや、これが商売だから」という言葉は、含羞やためらいとともに口にしたほうがいいと思う。
すくなくともその言葉がでてくる背景の一端は、自分の無力さによるものなんだからさ。
この記事を読んで、その時に感じた「うわ、汚い」という思いが蘇ってきた。
もちろん以上に述べた思いは私の主観的に感受したことに過ぎない。
最初にも書いたとおり、記事でわかることを前提にしているので、かなり偏った事を書いている可能性が高い。
だけど、私が言いたいことは簡単なことである。
人のことを書いてご飯を食べている人たちなんだから、人一倍自分たちには厳しくあって欲しい。
そう望むのは、理不尽なことだろうか。
私は別に「処罰せよ」とか「クビにしろ」なんてことを書いているわけではない。
「もっとほかの言い訳なかったの?」と書いているだけである。
九州のブロック紙である西日本新聞がこういう記事を出した。
今調べてみたら、全国紙も「朝毎読」の三大紙がネットで報じている。
長崎新聞社長がセクハラ発言か 女性社員に「愛人やろうもん」(毎日新聞) - goo ニュース
長崎新聞社長が性的発言 「セクハラ当たらず」処分せず(朝日新聞) - goo ニュース
なので、今私が調べた限りではみられないが、今後長崎新聞はなんらかの反応をするだろう。
規模の小さな地方紙だからちょっと遅れるかもしれないけれど、自社記事で報じるはずだ。
もちろん自社の醜聞なので、含羞の色が浮かんだ記事で十分だし、きまりがわるい「本社の見解」でもいい。
それでも何らかの反応はあるはずだ。
一長崎県人として、ジャーナリストとしての誠実な言葉を期待している。
もしそれがみられないならば、私の思いを長崎弁で言うならば、ただ一言。
「よそわしか~」(汚い)。
こんな文章書いているから、お弁当がすっかり冷めちゃったよ。
1月21日 追記
ブログを書いた翌日19日に長崎新聞が「おわび」の記事を出していたので、引用しておく。
長崎新聞社の徳永英彦社長の不適切な性的言動が、テレビや新聞などで報じられました。不適切な言動があったのは事実であり、県民、読者の皆さまに深くおわびするとともに、事実関係や経緯などについてご報告いたします。
徳永社長が、社長に内定していた昨年11月30日、長崎市内の飲食店で開かれた自身の職場送別会で、セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントに当たる言動をしていたのではとの外部からの指摘を受け、参加者に聞き取り調査を実施しました。
調査の結果、当時、常務取締役販売担当兼営業局長だった徳永社長は、酒をつぎにきた男性社員とその部下の女性社員に対し、「(2人は)愛人やろもん」などと性的な関係があるかのような発言をし、腰を振る卑猥(ひわい)な動作をしていたことが判明しました。
聞き取りをした2人に精神的な苦痛を受けた認識はありませんでした。鑑定依頼した第三者の弁護士は、2人に被害者意識がないことなどからハラスメントと判断することはできないとする一方で、言動については「品性に悖(もと)る」ものという厳しい評価を示しました。
読者の皆さま、並びに関係者の皆さまに不快な思いをさせ、多大なご迷惑をお掛けしたことに対しまして、深くおわび申し上げます。株式会社 長崎新聞社
◎徳永英彦社長のコメント
自分の不適切な言動でお騒がせし、大変申し訳ありません。反省し、二度とこのようなことがないよう十分注意してまいります。