もういくつ寝ると国慶節
26日(木)
来月1日は中華人民共和国の第70回目の「国慶節」。
ようは日本でいう建国記念日にあたるのだが、歴史が長いこの国では「建国」という表現をしてしまうとその節目がずっと先に遡ってしまう(ずっと前から国はあったわけだし)。
そういうこともあって、中国では建国記念日とはいわないようである。
なにはともあれ国慶節が中国最大の大型連休であることにはかわりない。
嬉しい。
今年の国慶節休暇は1日から7日までの7連休。
この連休を作り出すために、日本で言う内閣に当たる中国の国務院は、毎年土日の休日をずらして日程調節を行い、振替休日を設定する。
今年の場合、中国全土の学校や職場では、今週日曜日に来週金曜日の、再来週土曜日に来週月曜日の分の勤務・授業が行われることになった。
したがって今週末は土曜日だけが休日となる。
まあ、私はそもそも金曜日に授業が入っていないので関係ない話ではあるが。
というわけで、私は今日の授業と月曜日の6コマを片付ければ晴れてGWである。
嬉しい。
もちろん授業がないだけで、原稿を書かないといけないので、なんだかんだでちゃんと仕事はするんですよ。誤解なきよう(誰に言ってんだろう)。
今日は8時から16時まで(昼休みを挟んで)ぶっつづけで授業が入っている。
午前中の3年生の授業で抽象的な概念について180分も説明したので、さすがにへとへとに疲れて事務室に戻る。
お腹もすいた。
頭を絞ったので身体が炭水化物を求めている。
よし、今日の昼は麺だな。
うちの大学は昼休みが150分あるので、まずは気分転換に通勤に使っているジャイアントの折りたたみ自転車で1時間ほど市内を走る。
こいつはミニベロなので漕ぎ出しが楽。
どうせ街乗りではそんな大したスピード出せないので、心地よい秋風を全身に受けつつ、街並みを眺めながら、とろとろ走る。
15kmほど走ってお腹がグーペコにすいたところで、前回の日記で紹介した牛肉麺屋に到着。
ジャイアントを店の目の前の電柱に「地球ロック」し、店の中からでもつねに目が届く場所に席を取る。
それを見た店のにいちゃんが「そこまでしなくてもいいだろ」と言うが、ジャイアントの自転車に関しては買ったばかりのクロスバイクを盗まれたという2年半前の苦い記憶があるので、妥協などしないのである。
それはそれとして、メニューを見る。
前回はタンメンタイプの牛肉麺を頼んだので、今日は汁なし麺を試してみたい。
というわけで、“葱油牛肉拌面”(牛肉入りネギ油混ぜ麺、大盛り15元)を注文。
前回と同じく、注文を受けると、私の背後にある厨房で店のあんちゃんが、バン!バン!と(まるで親の敵をとるかのような勢いで)麺を打つ。
そうして鍛えられた麺はそのまま鍋で5分ほど踊り、碗に落ち着き、薬味や付け合せやソースでおめかしをしたあと、私の目の前に姿を現すのである。
おお、うまそう。
なるほど、ここの混ぜ面は平たい麺なのね。
さっそくよーく混ぜ混ぜしたあとに、いただきます。
うん、やっぱりここの麺はうまい。
もっちもちである。
にいちゃんの「バンバン」の賜物だろうね。
夢中でずるずるいただく。
ごちそうさまでした。
さあ、軽い運動と食事でリフレッシュしたし、午後も頑張ろう。
天高く、そして肥える秋。
19日(木)
昨日から天気が良い。
「天気が良い」なんて一言で片付けるのが失礼なほど、天気が良い。
空気が澄んでいるので、空が高く、青い。
雲が秋の訪れを説得力持って告げている。
あまりに天気が良いので、我ながら単純だが機嫌が良い。
そしてお腹も空いてしまう。
午前中に授業を一つ(3年生の作文)片付けたあと、久しぶりに麺を食べに前から気になっていた拉麺店へ行く。
店に入るなり、先客が美味しそうに啜っている麺が目に入る。
いやがおうでも期待が高まる。
さっそく牛肉拉麺の大(12元)を注文。
注文を受けると店のお兄ちゃんが麺をバンバンと打ってはくるくるねじり、くるくるねじってはバンバン打ちながら、まさに「麺を打つ」。
5分ほど待つ。
銀色のお盆に載って私の麺が登場。
美しい。
牛すじの茶色に薬味の緑、そして醤油ベースの澄んだスープの底に見える麺の白が食欲をそそる。
いただきます。
まずスープを頂く。
うまし!
醤油のコクにくわえて唐辛子のピリっとした辛味がアクセントとして効いている。
麺をすする。
文句なしのコシあり麺。
さっきにいちゃんがかなり力を入れて「バンバンねじねじ」しているのを見ているからそう感じるのかもしれないが、かなり弾力がある。
そしてよく煮込まれた牛すじの食感もすばらしい。
手を抜いたケチな麺屋は牛肉麺にうっすい牛肉を言い訳程度に乗せて「牛肉麺」を名乗ることがあるが、ここは違う。
満足。
腹ごなしに歩いて学校まで戻る。
風に秋の匂いがする。
見慣れたキャンパスも今日は美しく見える。
ああ、こんな日に自転車で郊外まで走り出すことができたら、さぞ気持ちがいいだろうな。
しかし、残念なことにまだ片付けなければならない事務作業が残っている私は、おとなしくオフィスへ向かう。
そして窓から見える晴天を恨めしげに一瞥したあと机にかじりついて心地よい秋の一日を過ごすのであった(太るなよ)。
“教师节快乐!”(教師の日おめでとう)
10日(火)
朝大学に行くと、学院の電光掲示板にデカデカとこんな文字が。
そうか、今日は9月10日だった。
中国では今日は“教师节”(教師の日)である。
1985年に国務院によって定められた。
だから今年が35回目。
趣旨としては、教師を教育事業に貢献する存在として社会的に認め称えるための祝日である(祝日とは言っても学校は休みにはならないが)。
日本には「教師の日」というものはないが、調べてみると世界各国で同じような日を設けているそうである。
中国ではどうかというと、近代に入ってから「教師の日」はいくつかの流動的な日程で祝われていた。
中国のインターネット辞典で調べてみると、新中国(つまり中華人民共和国)成立以前には、ふたつの「教師の日」が存在したそうである。
ひとつは1931年に教育関係者が教師の待遇改善を呼びかけて始めたものである。これは毎年6月6日を「教師の日」としていた。
もうひとつは1939年に国民党政府の教育部(文科省に相当)が設定したもの。これは毎年の旧暦8月27日を「教師の日」とした。孔子の誕生日にあわせたためである。
しかし、前者の「教師の日」は一定の影響をもたらしたものの国民党政府の承認を受けていなかったために、また、後者は戦争が原因のために、それぞれ全国へと普及し定着するには至らなかった。
戦争が終わり中華人民共和国が成立したあと、中央政府は6月6日版の「教師の日」を復活させ、教育部は各地の教育従事者に「それぞれの状況に合わせてこの祝日を祝ってよい」と通告した。
その後1951年になると、政府は5月1日のメーデーを「教師の日」とした。しかし、いかんせん「教師の日らしさ」がないため、これはうまくいかなかったとのこと。
さらに57年になると、いろいろな政治・思想状況の変化の影響により教師が社会的に尊重されなくなり、事実上「教師の日」はなくなったのである。
時は流れて1981年、教師の仕事の重要性を指摘し「教師の日」を再び設ける必要性を指摘する動きが政府の中から生じ始める。
その結果、先に述べたように85年に、9月10日を新たな「教師の日」として、中国において教師を祝い尊ぶ日が復活するに至ったのである。
この際、何月何日を以て「教師の日」にするかという問題に関していろいろ議論があったようだ(マルクスの誕生日である5月5日にしようとか)。
結局、「新年度が始まってすぐに設定すれば新入生が入学してすぐ教師を尊ぶ活動ができる」という理由で、9月10日が選ばれたとのことである。
概論的なことはここまでにしておこう。
私は2013年9月から中国で教師をしているので、今年が7回目の「教師の日」である。
私にとって人生初となる2013年のときには、そもそもが「教師の日」というものの存在を知らなかったので、いきなり学生さんから大きな花束やら「りらっくま」のライトやら、寄せ書きやら、いろいろもらってびっくりした。
だってまだ2週間しか教えてない学生さんたちからもらったんだもの。
ちょっと恥ずかしがりながらも嬉しさを覚える一方で、「いいのかなあ」と遠慮してしてしまった。
「おれ、まだなにもしてないぜ」と。
その後の年にも、ありがたいことになんだかんだいろいろ貰ったりお祝いの言葉をかけていただいたりしてきた。
そうして「教師の日」を経験していくなかで考えたことだが、この「教師の日」という習慣はなかなか教育的な働きを持っている。
つまり、学生諸君や社会にとっては「先生に何をあげるか」「どの先生にあげるか」「そもそもあげるかどうか」と頭を回転させることで「良い教師ってどんな教師だろうね」と考える機会になるし、教師にとっては「自分が学生にとって教師かどうか」を(目に見えるプレゼントや学生からのお祝いのメッセージの多寡というかたちで)反省する機会になるのである。
何も貰えず祝いの言葉もかけてもらえないと、きっと「俺って教師として問題があるんじゃないの?」と嫌でも自覚するだろうからね。
などということを考えていると、3年生の学生さんたちからカーネーションを、4年生からは月餅(今週金曜日が中秋節だからね)をいただく。
ありがとうございます。
先生は素直に嬉しいです。
この気持ちは仕事でお返ししますので、今後とも宜しくね。
なんだかどんどん漢字が書けなくなっていく、そんな感じ。
新学期3週目。
前回の日記にも書いたとおり、今学期の私の時間割は、水曜と金曜がまっしろである。
特に水曜日がオフというのはありがたい。
月・火と頑張って少し疲れたところで小休止できるからである。
なのでいまのところけっこう余裕を持って過ごせている。
ところがちょっと困ったことがある。
授業の板書に関することだ。
私の授業を目にしたことがある皆さんはご存知のとおり、私の板書は無秩序で汚い。
無秩序である理由は、基本的に板書計画など立てずに授業に臨むからだ。
だって学生も教師もその日によって状態が違うのに、事前に頭だけを使って机で計算した「計画」が役に立つはずがないからだ。
しかしどうも私のこの考えは非主流的なものらしく、しっかりと板書計画を立て、その計画通りに「美しい」板書をする教師が真面目で、親切で、教育力があると考える方々が多い。
別に自分が「真面目で、親切で、教育力がある」と言いたいわけではないけれど、そういう授業ってやってても聞いてても、楽しいのかしらと思う。
私は大学時代教員養成系の学部に在籍していたのだが、「授業計画」やら「板書計画」やらを必要以上に(私にとってということだが)細かく書くよう要求されるのが苦痛で仕方がなかった。
そんな2年生の夏休みのこと。
学部の附属小学校に行き、教育実習生(3年生)の実習を見学する機会を持った。
3年生の先輩方は、担当の先生の指導のもとノートにびっしりと「板書計画」や分単位での「授業計画」を記入していた。
そしてある男の先輩が後輩である私たちに、教授や指導教諭が臨席する「授業発表」をスムーズにこなし、上手な授業だと評価されるための「コツ」を教えてくれた。
聞けば、授業前夜に「板書計画」のとおりに板書をしたのち、それを黒板の近くに立ってよくよく目を凝らさなければ見えないほどの薄さまで消し、当日なぞるのだという。
「こうすれば授業は上手にできるよ」
そう得意気に語る彼を見て、私は「それって、なんか違うんじゃない?」と思った。
だって目線が評価者に向き、児童に向いていない。言葉が事前の計画に囚われ、目の前で生起しているコミュニケーションを見落としている。
私はそういうのが授業だとは思えなかった(今でも思えない)。
おかしいと思った(今でもおかしいと思う)。
しかし私の学部では、実際「そういうの」が模範授業として高評価を得ていたし、実際「そういうの」が教育だと同級生たちは信じていた。
そして「そういう人」が次々と教員採用試験に合格していった。
バカバカしい。
あまりにバカらしくなって、私は「落ちこぼれの受け皿」と呼ばれる「ゼロ免コース」を選択することで教員免許をとることを放棄し、哲学やら倫理学やら自分が心を惹かれた(そして飯の種にならない)ことだけを学んで、教育学部を出たのである。
まあ、昔話はこれくらいにして。
板書が無計画なのは、まあいいとしても、汚いのは問題である。わかっている。
私は小学生の頃習字を習っていて、毛筆も硬筆も「段」がつくぐらいまではやったはずなのだが、いまではみるかげもない。
昔ある先生が「字を綺麗に書くのは才能がいるが、ていねいに書くのは心がけの問題です」と言っていた。
おっしゃるとおりである。
「字が汚い」のは言い訳できない、私の態度の問題である。
反省。
さらに私の問題点を言えば、板書が汚いだけではない。
私は漢字を知らないのだ。
もちろん大学院まで出ているわけだから、漢字を読めないということではない(あたりまえだ)。
正確に言えば、漢字が書けないのである。
小学校の頃からそうだった。
本好きの母親の影響で幼いころから本に親しんでいた私は、同年代の子どもたちと比べると「読める漢字の量」が段違いに多かった。
教師に教科書を読み上げるよう指名されたクラスメートが読めない漢字やまだ習っていない漢字を、私は読めた。
そうして優越感をあじわうという可愛くないクソガキだったのである(あーやだやだ)。
しかし、問われる内容が「正しく書ける漢字の量は?」となったとたん、私は凡庸な一小学生となった(こうして先の優越感は奇妙な劣等感と同居することになった)。
それでも大学入学試験が終わるまではなんとか努力し人並みに漢字を書けるよう維持してきたのである。
それが中国に来てからというもの、時を追うごとに漢字が書けなくなりつつある。
おかしいとお思いだろうか。
「だって中国って漢字だらけでしょ」と。
そのとおり。
漢字だらけなのである。
ただ、その漢字が「簡体字」なのよね。
中国語を学び始めてからというものの、私の頭の中で日本語の常用漢字と中国語の簡体字がごちゃまぜになって交通渋滞を起こしているのだ。
たとえば、「丰」というとてもシンプルなこの漢字、日本でもよく使用する常用漢字の簡体字なのだが、一目見てなにかお分かりだろうか。
私は中国語の知識ほぼゼロで中国に来たので、街中でよく見かけるこの「丰」という漢字を最初は全く読めなかった。
なぜか車関係の看板によく出てくるので、私は「ああ、これはきっと『車』の簡体字なんだろうな」と思っていた。
実はこれ、「豊」の簡体字なのである(だから「トヨタ」は中国語では「丰田」、どうりで車関係に多く見るわけだ)。
日本の常用漢字「豊」であるが、漢和辞典を引けばわかるとおり、これは「豐」を簡略化したものである。「豐」という文字はたかつきである「豆」に豊かに穀物を持った様を表しているの。大陸の中国語ではここから「丰」を取り出して簡体字としたのである。
そんなのわかるわけないじゃん。
最初はそう戸惑った。
しかし中国滞在も長くなるにつれ、たとえば「豊か」と書こうとすると、まっさきに「丰」のほうが頭に浮かんできて「あれ、日本語だとどう書くんだっけ」と頭が真っ白になってしまうようになったである。
これが私が最近「あれ、この漢字ってどう書くんだっけ」とフリーズする要因のひとつである。
しかし、それにしても書けなくなってきている。
ほかに要因があるのではなかろうか。
たとえば、お恥ずかしい話だが、先週の授業中「黒船」という単語を黒板に書こうとしたときのこと。
「黒船」の「船」、その右部分を「あれ? なんだっけ……」と迷ってしまったのである。
ひょっとしてもうボケが来ているのだろうか。
恥ずかしい。
で、この問題に対する解釈として、さっき少し思いついた説明がある。
こういうものだ。
ひょっとして、私は中国人の学生さんを目の前にして仕事をしているから、「まあ、漢字がわからなくても仕方がないよね、日本人だもの。てへへ」と甘えているのではないだろうか。
たとえば、私がアメリカの大学でアメリカ人の学生さんたちを前にして板書をする環境にあった場合を考えてみる。
すると「あれ、『船』ってどう書くんだっけ」などという事態は死んでも避けるだろうと思う。
なぜならば非漢字圏のアメリカ人学生に「いやねえ、先生は日本人なのに『船』も知らないんですか? 私たちは日本語勉強して1ヶ月で覚えましたよ」(ぷぷぷ)などという反応をされてしまったのでは、小さな頃から漢字にどっぷりつかってきた私としては立つ瀬がないからだ。
その点、私が毎日相手をしている中国人学習者の方々は、そもそもが漢字の本家本元である。
「分家」に過ぎない私は、そもそも漢字に関して圧倒的な知的劣勢にあるのだ。
ちょっとくらい漢字を知らなくたって仕方がないよ。
「てへ、ごめんなさい」なのである。
というふうに逃げる自分を許しているから、どんどん漢字が書けなくなっているのです。
ごめんなさい。
板書が汚いことや漢字が書けないことは、「日本人」の問題ではなく私個人の傾向の問題です(本当です)。
頑張りますので、学生のみなさんや同僚の先生方はどうか温かい目で見てやってください。
よろしくお願いします。
8月の終わりと始まりの季節。
世界中の多くの国と同じく中国では9月から新年度。
日本では始まりの季節は春だが、中国では晩夏である。
まだまだ暑い。
そんななか、うちの大学ではちょっと早めに月曜日(8月26日)から新学期が始まった。
ちょうどその月曜日には2年生から4年生まで授業が入っている。
教室で学生諸君と久しぶりに顔を合わせる。
1年生は2年生になり、2年生は3年生になり、3年生は4年生になった。
とはいえ、学生さんたちは新しい学年にまだまだ馴染めていないようで、このまえまで2年生だった学生さんたちに「あなたたちは3年生ですよ」と語りかけても実感がわかないようでなんだかぼんやりしている。
かくいう私も同僚の先生と3年生の話をしている時にうっかり「2年生は……」と口走ってしまったりする。
なかなか新しい年度だという気持ちにはならない。
それは1年生が学校に来ていないということも原因としてある。
中国の高校や大学では新入生に対して入学直後に1ヶ月ほど“军训”(軍事訓練)という教育課程が課される。
この期間1年生は全ての授業がストップし、帽子から靴までおそろいの迷彩服に身を包み、大学の中で朝から夜までこの「軍事訓練」に明け暮れることになる。
「軍事訓練」とは言っても、別に銃をうったりするわけではない(と思う、みたことないから)。
基本的には行進の練習をしたり、整列の精度を競ったり、みんなで歌を歌ったり……。いわゆる集団規範を高める訓練がメインであるようだ。
なので、この時期のキャンパスは至るところに真新しい迷彩服を来た新入生や彼らが発する掛け声が満ちている。
そういう風景を見ると、「あー始まりの季節だなぁ」と私はしみじみと感じるのである。
そんなこんなで新しい年度が始まった。
新学期の時間割を見る。
けっこう「あたり」である。
なにしろ授業が入ってるのが3日だけなのだ。
週休4日である。
しかも、水曜日と金曜日がオフ。
つまり、週の中日に一息つけるし、毎週三連休なわけである。
嬉しい。
とはいえ、月曜と奇数週の木曜は6コマ(1コマ45分)入っている。
これは1日の授業数としてはちょっと多い。
1日立って6コマ喋るとけっこうきついんだよね。
学生さんにそう愚痴をこぼすと、羨ましそうな表情で「私たちは毎日“满课”ですよ」とのこと。
あら、それは大変ですね。
でもね、授業を「する」のと「受ける」のは違うの。
君たちは椅子に座って飲み物飲みながら見ているだけでも授業は成立するでしょう。
こっちは喋らないことには始まらないんだから。
そういえば中国語ではどちらも“上课”である。
だから、中国人学習者はよく「私は教授業をします」と言い間違う。
おなじような間違いだと、「手術」もそうで、今週の会話の授業で2年生が「私は夏休みに手術をしました」と言っていた。
「あなたは患者なので『手術を受けた』と言ったほうがいいですよ」と訂正した。
ということを書いていて「ん?」と思った。
日本人でも「膝の手術をする」という言い方をするときがあるな。
「手術を受ける」のほうが適切だとは思うけれど、決して「間違っている」わけではないのかもしれない。あとで調べてみよう。
そんなこんなで授業をしているとき、ふと窓の外を見て、とある積年の疑問が解決した。
私を悩ませていたのはこいつである。
外国語学院(ここでいう「学院」は日本語の学部と同じ)の中庭にあるなぞのオブジェ。
2年前に初めてこの大学に赴任した時から、こいつの正体がよくわからなかった。
この大学は農業大学なので、おそらく農作物や植物に関係しているのだろうとは思った。
しかし、なんだろう(ピクミンみたいだ)。
赴任した当初、学生さんに聞いてみたが、「さあ」「知りません」(どうでもいいだろ)という答えしか返ってこなかった覚えがある。
そんなこのオブジェの正体が2階の教室の窓からよく晴れた晩夏の広場を見下ろした瞬間に氷解したのである。
あ、これだったのか。
ザクロの果実である。
どうりで2年間わからなかったわけだ。
夏に実がなっているところを見なければなかなか気づかない。
授業中(作文テーマを与えて書かせている時間)だったのだが、わからなかったことがわかった嬉しさで、おもわず学生さんたちにそのことを伝える。
ほとんどの学生諸君は必死で原稿用紙に筆を走らせている。
耳を傾けてくれた優しい人たちも「はあ」というリアクションしかしてくれない。
そうですよね、作文書いている最中だしね。
ごめんなさい。
しかし、わからなかったことがこうして解決したおかげで、けっこう機嫌よく第1週目の仕事をこなしたのであった。
8月最後の日は土曜日。
前日に「ろんぐらいだぁす!」という自転車アニメ(絵柄で敬遠して見ていなかったがけっこう面白い)を見て久しぶりに100kmライドに行きたくなったので、路上に出て8月の終わりを記念することにする。
ちょっと朝寝坊し9時に起きる。
天気は曇り。
気温もそんなに高くはないので、快適に巣湖の北西を走る。
巣湖周辺は自転車専用レーンもあるし、何より風景がいいので、走っていて気持ちがいい。
途中多くのサイクリストとすれ違う。
いかにも移動の手段として自転車に乗っている人はただただすれ違うだけだが、本格的な装備や服装で走っている人たちはすれ違うと手を挙げて「やあ!」という感じで挨拶をしてくれる。
私も笑顔で同じように挨拶を返す。
自転車乗りには不思議な仲間意識がある。
自転車乗りとは、普通の人が「移動のために自転車に乗る」ところを「自転車に乗るために移動をする」という倒錯した存在である。
ゆえになかなか自分の趣味への理解が得られないのである。
きっとそんな一般的には不可解な趣味を持つ得がたい「同士」に出会えたことに対して、自然な親しみを覚えるのであろう。
前回の「巣湖一周」のときには通らなかった南岸の途中まで走る。
ほんとうは120kmは走りたかったのだが、天気予報によると雲行きが怪しいので、片道50km地点にある大きな橋で折り返す。
帰り道、少しずつ空に雨雲が広がってゆく。
レインコートを持ってきていなかったのでちょっと急ぐ。
そうやって合肥南駅付近に差しかかったところで、私と同じくMERIDAのロードバイクに乗っている爽やかなお兄ちゃんと遭遇。
今日初めてロード乗りを見た。
中国ではロード乗りはさらに少数派で、ほとんどのサイクリストはMTBに乗っている。
中国の道は道幅は日本よりあるのだが、舗装状態が悪い。
悪いというか、一見ちゃんと舗装されている道路でも、ところどころに謎のくぼみや傷跡があるのである。
だから、マウンテンバイクの安定性と安心感が高く評価されている。
いっぽうでロードバイクはなかなか普及していない(最近増えてきたらしいけれどね)。
だからだろうか、私のロードをしげしげと見つめながら話しかけてきた彼といろいろおしゃべりをしながら数km走る。
「そのバイク軽そうだね」とか「そっちのホイール快適そう」とか、そんな会話をする。
道が違うので、途中で「じゃあ、また」。
またどこかの路上で会うかもしれないね。
これまでの麺の話をしよう。
昨晩寝る前に過去撮りためた写真を整理していると、ハードディスクの底からこんな写真が出てきた。
重慶で撮った牛肉麺である。
見事に真っ赤っか。
これは出てきたお椀に私が後づけで唐辛子を瓶ごと放り込んだとかそういうわけではなく、最初からこの状態で運ばれてきたのである。
そして恐ろしいことに重慶ではこれが普通なのだ。
私は2013年8月から3年間重慶で生活していたが、かの土地ではとにかく出てくる食べ物のほとんどが“麻辣”(山椒の痺れを伴う辛さ)だった。
中国料理の辛さには“香辣”“酸辣”などいろいろな種類があるが、四川料理の辛さといえば、やっぱり唇がピリピリし舌がおかしくなるくらいの痺れを味わえる“麻辣”である。
重慶で生活していた時には、特に辛いものを食べようと思わずとも、それが麺だろうが丼だろうが、何かをオーダーすれば大抵の料理には大量の唐辛子がついてきたものだった。
あまりに辛いので“放一点点”「(唐辛子は)ちょっとだけ入れてね」と注文していたのだが、重慶人にとっての「ちょっと」に任せると結局出てくるのはたっぷり唐辛子が入った料理だった。なので途中から諦めて出されたものをそのまま食べるようになった。
慣れというものは怖いもので、半年も経たないうちに写真のような麺をスープまで堪能するようになってしまったのだ。
そんなこんなで3年間を過ごしたあと、2016年に安徽省に引っ越した。
そして(たぶん気候が違うからだろう)重慶で生活していたときのように日常的に好んで辛いものを食べることはなくなってしまった。
結果的にだいぶ辛さへの耐性がなくなった。今写真のような真っ赤っかな麺をスープまで完食したら、たぶん翌日トイレにこもることになってしまうのではないだろうか。
辛さは別として、重慶の麺は私好みである。
よく重慶で目にした麺は(鹹水を使っているからだろうか)ちょっと黄色がかったコシと粘り気のある細麺だった。
これが辛いスープに合ってなかなか美味しい。
重慶の麺料理といえば、ほかにも坦々麺(タンタン麺)や重庆小面、豌豆炸酱面(えんどう豆のジャージャー麺)などいろいろあるが、どれも美味である。
対して合肥の麺は、あまり私好みではない。
全体的に麺が白い太麺で、あまりコシが感じられないからだ。
結果的に合肥で麺を食べようと思うと、私が向かう先はどうしても拉面を出す店(文字通り引っ張って打つ麺、コシが強い)になってしまう。
この拉面だが、日本のラーメンのように麺をスープに泳がせる“汤面”(タンメン、中国語ではスープがあればすべてタンメン)として食べてもいいが、“炒面”(炒めた麺、つまり焼きそば的なもの)として食べても美味しいし、“盖面”(麺の上にさまざまな具材をのっけて「蓋」をしたもの)でもいい。今の時期なんかは“凉拌面”(冷やし中華)なんかも美味しい。
あくまで私の感想に過ぎないが、米を食うならやっぱり日本のほうが美味しい。
重慶や合肥で食べるコメは粘り気がほとんどなく食感も悪い。中国のなかでも東北地方のコメはけっこう美味しいのだが、それでも日本の平均的な米には及ばない気がする。
理由はコメそのものにもあるだろうが、その炊き方にあると私は思う。
中国の飲食店では基本的にご飯は大盛り、おかわり自由である。ほんとうにもう「いや!」というほど、こんもりお皿やおひつに盛られて提供されるのが普通である。
それはありがたいんだけれども、それは大量の米を一度に炊いたあと保温しておいたものが出されているということだ。
さらに「炊く」とはいっても、中国の飲食店では、炊飯器やお釜で炊いているわけではない。
私たちが小学生だったころ一人ずつ割り当てられていた机ぐらいの大きさのバットにコメと水を入れて、それを大きな蒸し器に放り込んで蒸しているのである。
よくテレビで日本旅行から帰ってきた中国人観光客が炊飯器を「大人買い」しているのを目にするが、やっぱりちゃんと炊かないとお米は美味しくないということだね。
そういう主食事情もあり、本来は白飯大好きな私であるが中国にいるときはあまりご飯を食べないのである。
対して麺食であるが、これはもう中国の圧勝。
そのへんの安い麺屋でもそれなりに美味しい麺が出てくるし、しかもその種類の多さたるや……。日本は到底及ばない。
こうして私は「麺喰い」になった。
こうして振り返ってみると、これまでいろいろな麺を食べてきたものである。
これからもさまざまな中国の麺を食べたいと思う。
そのために日々散歩をしながら麺屋を物色している。
残念ながら現在減量中のためしばらくは麺を楽しむことができない。
あと5kg痩せるまで辛抱である。
ぼくはあるいた、まっすぐ、まっすぐ。
8月23日(土)
夏休み最後の週末。
来週の月曜日から新学期である。
この日は9時に起きてゴロゴロしていたのだが、残り僅かな夏休みをこうしていいのかということで、思い切って自宅から合肥を南北に走る地下鉄一号線の南側終点である“九联圩”(Jiulianwei)まで歩いてみることにした。
なぜそんなことをするかというと、なぜそんなことをするかわからないからである。
意味がわからないから、意味がわからないことをやってみたいのである。
こういう「無駄」なことって仕事が始まったらやっている暇も余力もないからね。
日焼け止めクリームを首筋まで塗りたくり、アームカバーをしたあと、リュックに魔法瓶につめた水を入れて、12時すぎに自宅を出発。
道のりはかなり単純なものである。
ほとんどの道のりは南北を直線的に走る「徽州大道」を巣湖につき当たるまで南下するだけ。
自転車でも何度も通ったことがあるお馴染みの道である。
合肥市を南北約20kmにわたって走る「徽州大道」の歴史は1955年に遡る。
この年に当時の合肥市長により合肥の主要な道路28本が布告された。
その28本目が「徽州大道」の由来となる「徽州路」である。
この名称は1994年まで約40年間に渡って使用され続けたのだが、同年「美菱大道」(Meiling)と改称されてしまう。これには合肥に本社を置く同名の会社(冷蔵庫が有名)が関係している。
55年に開かれた「徽州路」は改修が必要とされる状況にあった。しかしそのころの合肥市は経済的に困窮しており、改修費に頭を悩ませていた。
そこで経済的援助の手を差し伸べたのが、地元企業である美菱だった。
合肥市と美菱との協議により、美菱が改修費用を負担する一方で合肥市は美菱への感謝の意を示すために改修後の「徽州路」の名称を10年の間「美菱大道」とすることになったのである。
ところが地元の人達にとってはなじみある「徽州路」が突然変わってしまったことがうまく飲み込めない。彼らにとって「徽州路」は「徽州路」でしかないからである。
ということで、協定による10年という歳月が過ぎたあとで、多くの市民の声もあり、「美菱大道」は「徽州大道」として“復活”し、現在に至るわけである。
などとわかったようなことを書いているが、これはさっきネットで調べて初めて知った事実である。
そういう歴史があったとは知らなかった。
日本では道に名前をつけて親しむ習慣が(中国に比べたら)ない気がする。
校名の改称とかスタジアムのネーミングに際して運動が起こるのは聞いたことがあるけれど。
なにはともあれ、合肥市民の思いが込められた「徽州大道」をひたすら南に向かって歩く。
気温は相変わらず30度を越えているが、街路樹が途切れることなく植えられているおかげで木陰に恵まれているので、けっこう快適に歩き続ける。
中国ではどこでも同じだろうが、合肥市内はつねにどこかで工事をしている。
地下鉄を通したり、道路を高架化したり。
15kmほど歩いた地点で「滨湖新区」に到着。
安徽省の省政府(日本で言う県庁)やさまざまな公的機関、それに民間企業やらマンションやらショッピングセンターなどが整備されている最中である。
ビザ更新で年に2度(申請と受け取り)は来ないといけない公安局入局管理局が入っている「要素大市場」(なんて翻訳すればいいんだろう、いろんな公的機関が集まっている大きな建物)に到着。
この時点で15km歩いている。
ナビによればあと6km。
コンビニで水を購入し魔法瓶に移し替え、少し休憩してから出発。
だいぶ高い建物が増えてきた。
きつい西日が射すなか、道はまだまだ続く。
「あと2km…あと1km…」と自分に語りかけながら歩き続け、予定の21kmを超えるが、まだつかない。
ナビに騙されることは中国ではよくあることである。
どのみちあと数キロのこと。
頑張ってまっすぐまっすぐ歩く。
結局23km歩いたところで“九联圩”駅に到着。
約4時間半の道のりであった。
なんてことはないただの地下鉄の駅だが、自分の足でたどり着いたと思うと、ちょっと感慨深い。
別にこのあたりに見たいものは特にないので、すぐに地下鉄に乗車。
私の自宅の近くには2号線の駅があるので、途中で乗り換えて帰宅する。
始発の誰も乗っていない車内に飛び乗り、いままで自分が歩いてきた道のりをあっという間に通り過ぎる。
なぞの達成感を噛み締めているうちに市内に到着。
こうして夏休み最後の土曜日は終了。
ジョギングや自転車では使わない筋肉を酷使したようで、次の日はかなりきつかった。