とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

なんだかどんどん漢字が書けなくなっていく、そんな感じ。

新学期3週目。

前回の日記にも書いたとおり、今学期の私の時間割は、水曜と金曜がまっしろである。

特に水曜日がオフというのはありがたい。

月・火と頑張って少し疲れたところで小休止できるからである。

なのでいまのところけっこう余裕を持って過ごせている。

ところがちょっと困ったことがある。

授業の板書に関することだ。

私の授業を目にしたことがある皆さんはご存知のとおり、私の板書は無秩序で汚い。

無秩序である理由は、基本的に板書計画など立てずに授業に臨むからだ。

だって学生も教師もその日によって状態が違うのに、事前に頭だけを使って机で計算した「計画」が役に立つはずがないからだ。 

しかしどうも私のこの考えは非主流的なものらしく、しっかりと板書計画を立て、その計画通りに「美しい」板書をする教師が真面目で、親切で、教育力があると考える方々が多い。

別に自分が「真面目で、親切で、教育力がある」と言いたいわけではないけれど、そういう授業ってやってても聞いてても、楽しいのかしらと思う。

 

私は大学時代教員養成系の学部に在籍していたのだが、「授業計画」やら「板書計画」やらを必要以上に(私にとってということだが)細かく書くよう要求されるのが苦痛で仕方がなかった。

そんな2年生の夏休みのこと。

学部の附属小学校に行き、教育実習生(3年生)の実習を見学する機会を持った。 

3年生の先輩方は、担当の先生の指導のもとノートにびっしりと「板書計画」や分単位での「授業計画」を記入していた。

そしてある男の先輩が後輩である私たちに、教授や指導教諭が臨席する「授業発表」をスムーズにこなし、上手な授業だと評価されるための「コツ」を教えてくれた。

聞けば、授業前夜に「板書計画」のとおりに板書をしたのち、それを黒板の近くに立ってよくよく目を凝らさなければ見えないほどの薄さまで消し、当日なぞるのだという。

「こうすれば授業は上手にできるよ」

そう得意気に語る彼を見て、私は「それって、なんか違うんじゃない?」と思った。

だって目線が評価者に向き、児童に向いていない。言葉が事前の計画に囚われ、目の前で生起しているコミュニケーションを見落としている。

私はそういうのが授業だとは思えなかった(今でも思えない)。

おかしいと思った(今でもおかしいと思う)。

しかし私の学部では、実際「そういうの」が模範授業として高評価を得ていたし、実際「そういうの」が教育だと同級生たちは信じていた。

そして「そういう人」が次々と教員採用試験に合格していった。

バカバカしい。

あまりにバカらしくなって、私は「落ちこぼれの受け皿」と呼ばれる「ゼロ免コース」を選択することで教員免許をとることを放棄し、哲学やら倫理学やら自分が心を惹かれた(そして飯の種にならない)ことだけを学んで、教育学部を出たのである。

 

まあ、昔話はこれくらいにして。 

板書が無計画なのは、まあいいとしても、汚いのは問題である。わかっている。

私は小学生の頃習字を習っていて、毛筆も硬筆も「段」がつくぐらいまではやったはずなのだが、いまではみるかげもない。

昔ある先生が「字を綺麗に書くのは才能がいるが、ていねいに書くのは心がけの問題です」と言っていた。

おっしゃるとおりである。

「字が汚い」のは言い訳できない、私の態度の問題である。

反省。
さらに私の問題点を言えば、板書が汚いだけではない。
私は漢字を知らないのだ。
もちろん大学院まで出ているわけだから、漢字を読めないということではない(あたりまえだ)。
正確に言えば、漢字が書けないのである。
小学校の頃からそうだった。
本好きの母親の影響で幼いころから本に親しんでいた私は、同年代の子どもたちと比べると「読める漢字の量」が段違いに多かった。

教師に教科書を読み上げるよう指名されたクラスメートが読めない漢字やまだ習っていない漢字を、私は読めた。

そうして優越感をあじわうという可愛くないクソガキだったのである(あーやだやだ)。
しかし、問われる内容が「正しく書ける漢字の量は?」となったとたん、私は凡庸な一小学生となった(こうして先の優越感は奇妙な劣等感と同居することになった)。
それでも大学入学試験が終わるまではなんとか努力し人並みに漢字を書けるよう維持してきたのである。
それが中国に来てからというもの、時を追うごとに漢字が書けなくなりつつある。

おかしいとお思いだろうか。

「だって中国って漢字だらけでしょ」と。

そのとおり。

漢字だらけなのである。

ただ、その漢字が「簡体字」なのよね。 

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大学の近くの屋台街。夜になると営業開始し、学生や近隣の人たちで賑わう。

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いたるところに簡体字が。ちなみにこれは「学長」の簡体字だが、中国語では「学校の先輩」という意味である。

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たい焼きの屋台。“鲷鱼烧”(diao1yu2shao1)は日本語の「たい焼き」をそのまま輸入したものだろう。このように中国語を勉強したことがなくても分かる言葉も多い。

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中身のメニュー。一番右上から時計回りに、「あずきあん」「紫芋あん」「抹茶」「バナナ」「かぼちゃ」「サラダ味」。「サラダ」が気になる。


中国語を学び始めてからというものの、私の頭の中で日本語の常用漢字と中国語の簡体字がごちゃまぜになって交通渋滞を起こしているのだ。

たとえば、「丰」というとてもシンプルなこの漢字、日本でもよく使用する常用漢字の簡体字なのだが、一目見てなにかお分かりだろうか。

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私は中国語の知識ほぼゼロで中国に来たので、街中でよく見かけるこの「丰」という漢字を最初は全く読めなかった。

なぜか車関係の看板によく出てくるので、私は「ああ、これはきっと『車』の簡体字なんだろうな」と思っていた。

実はこれ、「豊」の簡体字なのである(だから「トヨタ」は中国語では「丰田」、どうりで車関係に多く見るわけだ)。

日本の常用漢字「豊」であるが、漢和辞典を引けばわかるとおり、これは「豐」を簡略化したものである。「豐」という文字はたかつきである「豆」に豊かに穀物を持った様を表しているの。大陸の中国語ではここから「丰」を取り出して簡体字としたのである。

そんなのわかるわけないじゃん。

最初はそう戸惑った。 

しかし中国滞在も長くなるにつれ、たとえば「豊か」と書こうとすると、まっさきに「丰」のほうが頭に浮かんできて「あれ、日本語だとどう書くんだっけ」と頭が真っ白になってしまうようになったである。

これが私が最近「あれ、この漢字ってどう書くんだっけ」とフリーズする要因のひとつである。


しかし、それにしても書けなくなってきている。

ほかに要因があるのではなかろうか。
たとえば、お恥ずかしい話だが、先週の授業中「黒船」という単語を黒板に書こうとしたときのこと。
「黒船」の「船」、その右部分を「あれ? なんだっけ……」と迷ってしまったのである。
ひょっとしてもうボケが来ているのだろうか。
恥ずかしい。
で、この問題に対する解釈として、さっき少し思いついた説明がある。
こういうものだ。
ひょっとして、私は中国人の学生さんを目の前にして仕事をしているから、「まあ、漢字がわからなくても仕方がないよね、日本人だもの。てへへ」と甘えているのではないだろうか。
たとえば、私がアメリカの大学でアメリカ人の学生さんたちを前にして板書をする環境にあった場合を考えてみる。
すると「あれ、『船』ってどう書くんだっけ」などという事態は死んでも避けるだろうと思う。
なぜならば非漢字圏のアメリカ人学生に「いやねえ、先生は日本人なのに『船』も知らないんですか? 私たちは日本語勉強して1ヶ月で覚えましたよ」(ぷぷぷ)などという反応をされてしまったのでは、小さな頃から漢字にどっぷりつかってきた私としては立つ瀬がないからだ。
その点、私が毎日相手をしている中国人学習者の方々は、そもそもが漢字の本家本元である。
「分家」に過ぎない私は、そもそも漢字に関して圧倒的な知的劣勢にあるのだ。
ちょっとくらい漢字を知らなくたって仕方がないよ。
「てへ、ごめんなさい」なのである。
というふうに逃げる自分を許しているから、どんどん漢字が書けなくなっているのです。
ごめんなさい。
板書が汚いことや漢字が書けないことは、「日本人」の問題ではなく私個人の傾向の問題です(本当です)。
頑張りますので、学生のみなさんや同僚の先生方はどうか温かい目で見てやってください。
よろしくお願いします。