とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

火鍋やら「卒論」論やら映画やら。

 土曜日なので朝寝坊。

10時すぎにベッドから這い出しシャワーを浴びたあと、中国語の勉強を一時間ほどする。 

一週間生活するなかで見聞きした単語や表現を例文とともに、大学ノートにカリカリと書き記していく。

 

性骚扰:セクハラ

他因性骚扰而被解职。:彼はセクハラで解雇された。

家室:家族、妻子、妻。

有家室的人:所帯持ちの人

有染:(男女が)肉体関係を持つ。

 

このページだけ見た人は「お前はこの一週間何を目にしたんだ」と思われるかもしれないが、前日の夜に、「妻子ある塾講師が教え子に手を出していて、その教え子によってネットで暴露された」というニュースを読んでいたからこうなったのである。 

別に私が実際に「目にした」わけではないので、くれぐれも誤解なさらないよう(しないか)。

 

中国語に飽きたので、近くの杏花公园まで行って1時間ジョグ。

寒いからか、猫たちが「だま」になっている。 

人間が通りがかると我さきにと近寄ってくる(夏は一目散に逃げるのにね)。

きっと人間を暖をとれるなにかだと思っているのだろう。 

しばらく猫と戯れる。

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猫にも飽きたので、家に戻ってまたシャワーを浴びる。 

簡単な昼食を食べ、1時間昼寝。

夜は学生さんから火鍋のお誘いがあったので、KさんとOさんと一緒に地下鉄でふた駅の火鍋屋まで行く。 

とりあえず「選択肢は多いほうがいいよね」と、真ん中に仕切りが入っていて2種類の味を楽しめる“鸳鸯锅”(おしどり鍋、日本語でなんて言うんだろう)をオーダー。 

スープは辛いスープと、干しキノコやらナツメやらが入った薬膳風のスープにする。

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この薬膳風のものは、今回お誘いいただいたKさんのお気に入りらしく、彼女はしきりに「きのこのスープだけで十分なのに」「ここの辛いスープは美味しくないですよ」と言っていた。 

たしかに、これは美味しい。 

身体の奥までしみてきて、なんだか健康に良さそうだ。

思わず具材のことを忘れてしまい、スープだけで何杯も飲み干してしまった(Kさんは「ほらみろ」という顔をしていたが、スルーする)。

辛いスープ(红汤)の方は、うーん、いまいち。

ぜんぜん花椒が入ってないし、豆板醤の辛味しか感じない。

合肥の火鍋屋で出てくる红汤は、なぜかどれも辛いだけで「なにか」が足りない。

重慶にいたときは、それこそそのへんの安そうな火鍋屋でも旨みや深みがある红汤を味わえたような気がする。

やっぱり红汤を味わいたいなら、本場四川だね。

そう口に出すとKさんは「だから言っただろ」とでも言いたそうにほくそ笑んでいたが、これも華麗にスルーする。

 

火鍋をつつきながら、Kさんから卒論についてご相談を受ける。 

指導の先生から「まずは自分が書きたいジャンルの先行研究を集めて読みなさい」と言われたが、そもそも自分が書きたいテーマ(日本のアイドル)に関して先行研究がないのだという。 

「先行研究がないなんてことはないよ」と言うところからお話する。 

私が考える先行研究というものは、あらかじめ決められた学問分野や研究テーマにしたがって、理路整然と並び収まっているようなものではない。

先行研究とは、自らの疑問や考察を核として、さまざまな学問分野やジャンルを超えて、みずからが集めていくものである。 

たとえば、Kさんの研究したい「アイドル」(彼女はジャニーズが好きなのだ)という研究対象は、なにも一つの学問分野やジャンルにあらかじめ存在しているものではないし、収まるものでもない。 

とうぜん音楽は絡んでくるし、産業論やらジェンダー論やら心理学やら舞踏やら、いろいろな要素が関係してくる(私だったら絶対「師弟論」やプラトンあたりからアイドルという現象を考察する)。 

たとえ論文名に「アイドル」と書かれていなくても、文中に「アイドル」という単語が登場しなくても、自分が「アイドル」という研究対象に関して抱く疑問や、その疑問を考察する際に関係してくるのならば、私にとってそれは立派な先行研究である。 

先行研究とは、自分が研究したいテーマに関して先行的になされた研究のことであって、決して執筆すらしていない段階で予想される自分の研究テーマが位置するであろう一分野や特定領域、ジャンルにおける論文の蓄積を指すわけではない。 

だから、まずは自分の素朴な疑問を紙に書き出していって、その疑問を解決してくれそうな書籍や論文を集めていく(先行研究の収集)。 

そうやって集めた文献を読み進めていく過程で、それでも納得できないし解決されない自分なりの疑問が残るはずだ(問題意識の発見)。 

その問題意識を、それぞれの先行研究で明らかになっている点を整理しながら、未解決の課題として提示する(先行研究のレビューと本研究の目指すもの)。

その課題を上手く論証できれば、その研究は独自の問題意識に担保されたオリジナリティを持つものとなる。 

結局は料理と一緒だ。 

たとえば、今私たちの目の前のテーブルには「豚の薄切り肉」や「せんまい」、「アヒルの腸」(これ、大好き)「えび団子」なるさまざまな具材が並んでいる。 

でも、たとえばKさんが食べたいものはテーブルの上にはないとする。

で、店員さんを呼んで注文しようとしてみると、テーブルの上どころか店のメニューにすらないことが発覚する。

「しかたがない、ほかのお店に行ってみよう」ということで(空腹を抱えて)何軒も何軒も訪ね歩いてみたけれど、おそらくKさんが食べたいものは未だ存在していないらしいことが明らかとなる。

ここが肝心なのである。 

「Kさんの食べたいもの」は「未だ存在しない」からこそ「Kさんの食べたいもの」としてオリジナルに「存在」し得るのだ。

「存在しない」けど「存在しないから、存在しうる」、矛盾だね。 

どうする? 

じゃあ、もう自分で作るしかないよね。

でも、ただ作るだけではダメです。

Kさんが食べたいものがない理由は、そもそも「誰も食べたくない」からあえて誰も造らなかったのかもしれないし、「誰もそんなものを考えもしなかった」から存在しないのかもしれない。 

前者の場合、それは論文として書く価値や意義がない。 

別に「ゲテモノ」好きならそれでもいいけれど、それは家で一人で食べればいい。 

論文は趣味ではなく、必ずそれを受け取る誰かが存在しなければいけない。

後者の場合、「これ、今までなかったけれど、いいね!」と言ってくれる理解者を得なければならない。

つまり、Kさんが食べたいものは本当にこの世界に存在しないのか、本当に存在しないのならば、なぜ存在しないのか、今あるメニューではなぜだめなのか、説得力を持って提示しなければならないということだ。 

そのためには、いろんな火鍋屋さんに行き、メニューを味わい、自分が作りたいメニューの輪郭や独自性を練り上げて行く必要がある。

論文執筆に際して先行研究を読み込むことの意義はそこにある。

というか、そこにしかない。

先行研究を読み込むことは、自分の研究の立ち位置を知るためであって、自分の研究の主張や材料を収集するためではない。 

よく先行研究と先行研究を「くっつけて」、「私の研究です」と発表する学生さんを試問会で見るけど、それでは「いや、それ誰でも出来るやん」と言われるだけである。

たとえば、今ここにある「豚の薄切り肉」の皿に「せんまい」を移し替えて、「これが私の考えたメニューです」と言われても、「お、おう」と思うでしょ。

こういう「論文」を書いてしまうと、「君の独自性はどこ?」という質問に撃沈して、「これ、論文じゃなくてレポートだよね」という指摘に絶句する未来が待っている。

研究とは「新しいもの」を生み出すことであり、「新しいものを生み出す」とは既存と既存を組み立てることではないのだ。

必ずオリジナルな視点や革新的なアイディアが必要になる。

オリジナルな視点とは、いまテーブルの上にないものをテーブルの外から調達するための回路である。 

革新的なアイディアとは、「今のテーブル」そのものを捨て去って、もっとたくさんのメニューを並べることができるような、より大きく広くすばらしい「テーブル」にバージョンアップさせるための観点である(卒論でそれができたらすごいけれど)。

そして、オリジナリティや革新的アイディアの来源は、Kさん自身の「ほんと?」とか「なんか、違う」という言葉にならない思いにほかならない。

今の勤務校では外国人教師は卒論指導を担当していないから、私は今年論文指導をしない。 

しかし私が論文指導するときにまず心がけるのは、この「ほんと?」とか「なんか、違う」という感覚を自分で発見してもらうことである。 

そのためには、まずは私が「ほんと?」とか「なんか、違うと思うよ」と学生さんに問いかけ続けることが必要不可欠だ。

学生さんに「どんなことに疑問や納得できない思いがあるの?」という問いを向ける前に「まずは先行研究を読め」という指導をされる先生方もいるが、私はそのような指導はしない。 

学生さんはある既存の学問分野や専攻ジャンルのために貴重な時間と体力を使って卒業論文を書くわけではない。 

自分の言葉にできない思いをなんとかして言葉にすることで、「ひと皮むける」ために卒論を書くのである。 

卒論テーマを自分で決められない学生さんが多いが、それは結局のところ、1年生の頃から教師が一対一で学生さんの「言葉にできない思い」に丁寧に向き合って来なかったからではないか。 

卒論テーマを自分で決められない学生さんに、教師が(自分の専攻分野の)テーマを与え、先行研究リストを提示し読まこませ、「論文」を書かせる事例も見聞きしたことがある(うちの大学ではないよ、念のため)。 

でも、それって研究ではなくて「パズル」じゃん。 

論文ではなくて課題文じゃん。

そのような指導で学生さんに身悶えするような知的快感を実感させることができるだろうか。 

私は疑問である。

私自身は卒論で「死刑存廃問題」を扱った。 

ルソーやらロックやらベッカリーアやらカントやらマルクスやらにご登場願い、いろいろお話をしながら、私なりの視点を探った。

4万字を超えて「今度はロールズにおいでいただこうと思っているんですけど」というところで、指導教官である恩師から「もう、そのへんでいいんじゃない?」とストップがかかった。 

それぐらい楽しんで卒論を書いた。 

私が卒論で表現したかった自分の言葉にならない思いとは、「正義と不正義」とか「賛成と反対」とかいう二項対立的な構図に納得できない「なにか」であった。 

それを「死刑制度」というホットな論件で「なんとか言葉にしよう」と挑んだのである(書き終わったあとにわかったのだけれども)。 

主体性をもって執筆すれば、卒論は4年間の大学教育の中でもっとも心躍る勉強になるはずである。 

だから、まずは「言葉にできない思い」をたくさん拾い集めてみてごらん。

というようなことを(曇った窓ガラスにめちゃくちゃなイメージ図を書き殴りながら)お話する。 

Kさんにわかっていただけたかどうかは私のあずかり知らぬところであるが、「なんとなくわかりました」と言っていただけたのでよかった。 

その「なんとなく」を形にすることこそが研究だからね。

結局2時間ぐらい火鍋とおしゃべりを楽しみ、また地下鉄に乗って帰る。

 

翌日は、日曜日なので朝寝坊。 
ぱぱっと家事(洗濯と夕食明日のお弁当の下準備)を片付けたあと少し走ってシャワーを済ませて、寝転がって映画を見る。 
久しぶりに阿部寛を見たくなったので、『自虐の詩』(監督堤幸彦、2007年)を数年ぶりに鑑賞。 
この映画は何度見てもよくわからない映画だ。
ジャンルは喜劇なのか、感動モノなのか、演出や演技のチープさやありきたりさは意図的なものなのか、よくわからない。
でも、なぜか何回見ても後半は涙腺に「くる」(その度に「ああ、こんなありきたりなシーンで泣くとは、俺って安い人間だな」と思う。)。 
でも、この映画は見るたびに新たな問いと気づきを与えてくれる。
今回思ったこと。 
この映画では「お母ちゃん」が全くの謎で未知である。 

出自や家庭環境、人間関係にアイデンティティを見いだせず、「お母ちゃん」に語りかけ続けるヒロイン(愛しの中谷美紀)の人生への思いや考えは、「私を捨てた母」によって決定づけられ、阻害されている。 
そういう意味では『1Q84』の天吾くんと似たところがある。 
語りかける相手が「いない」し「ほんとにいたのか」すらあやういけれど、ヒロインにとって「お母ちゃん」は「いないし存在すらわからんけども語りかけつづける」という形で存在し続けている。 
『自虐の詩』も『1Q84』も、実際に「母」がどうだったのか、そして「母」について語る「父」が果たして信頼に足るものなのか、そこのところは物語上誰にもわからなくなっている。 
『自虐の詩』の「父」(西田敏行)はあからさまに「あやしい」人なので、彼が語る「お前は母ちゃんに捨てられた」という、物語とヒロインの半生を貫く設定そのものが「あやしい」。 
しかしヒロインは、それを唯一の拠り所として「お母ちゃん」に半ば恨みつらみを向けながらも、ここまで生きてきた。 

その唯一の拠り所は、しかし「自分を捨てた」存在であり、「自分は捨てられた」という世界観なのである。 
ラストで私が毎回「感涙」するのは、ヒロインが夢の中で初めて「母」に出会い言葉を交わすことによって、新たな人生観を自らの力で手に入れるからである(今初めて気づいた)。 
そういう意味では、『ピンポン』においてドラゴンがペコに敗れる瞬間に初めて無垢で純粋な笑みを浮かべるシーンを見て「あー、よかったねぇ」とウルウルくるのと同じかもしれない。 
たとえ「夢」に過ぎなくても、それが自己調達したものでありその後に明るく生きる柱となるのなら、いいじゃないか。 
だから、やっぱり、『1Q84』で天吾くんの「父」(認知症)が天吾くんから出自の明確化を期待する質問を受けたときに「説明されないとそれがわからんということは、いくら説明してもわからんということだ」と諭したのは腑に落ちるのである。 
自らの出自に関して、「ホントのこと」なんて結局どうでもいいのだ(確認しようがないし)。 
大事なのは、自分が自分の生を引き受けることができるかどうかに過ぎない。 
なんて、阿部寛とはまったく関係ないことを考えた。 

でも、阿部寛は相変わらずいい男だったし、中谷美紀は相変わらず美しかった。