とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

祝!採点からの解放(降り積もる雪をひとり事務室で眺めながら)

7日(月)

終日採点作業。疲れた。

採点に飽きたタイミングを利用し、ほかの仕事をパパッと済ませる。

そういえば4年生の期末試験(「日本語視聴説」)の参考回答をまだ書いてなかったので、作文する。

「視聴説」という科目は、学生に映像資料を見せ、その後映像を踏まえて話してもらうという、「視る」「聴く」「話す」を中心としたものである。

日本の大学の外国語学部にもあるのだろうか。

なかなか意義深い科目だと思うが、映像選択と授業構成を工夫しなければ「観る・聴く」ではなく「見る・聞く」になってしまい、学生さんが「話す」ことの知的水準がガクッと下がってしまう。 

たとえば、単にグルメ番組やバラエティを見せてしまうと「美味しそうでした」とか「イケメンでした」とかしか引き出せないことが多い。 

かと言って、「仕事の流儀」のような真面目なドキュメンタリーを見せてしまうと、学生さんたちは「正しいこと」を言おうと気張ってしまい、結果的にありふれたストックフレーズや一般論しか出てこないことが多い。 

なので、難しい科目である。

最近の私はその場で意見を言ってもらうことよりも、まずは問いや違和感を言語化してもらい、クラスで共有することを目指している。

「わかる」というのは一問一答の蓄積ではなく、問いと問い、思考と思考、問-思考と問-思考が無秩序無規則に絡み合って形成されていくと思うからだ。 

となると、「なんか変」と引っかかるのだけど面白く、「よくわからない」けど深みが感じられる映像が最適だ。 

その選択が難しい。 

しかし、そうやって選択した映像の質は、毎回の授業で受けたか滑ったかによってはっきりわかる。

つまり、私の「面白い」とか「なんか変」とか「深い」が、学生さんのリアルな反応でテストできるのが興味深い。

その「視聴説」の期末テストの参考解答をせっかく書いたので、問題と一緒にここに貼り付けておく。

ご笑覧ください。

ちなみに試験でお見せした映像は、ラーメンズの小林賢太郎がやってる「小林賢太郎テレビ」より「3D」。

 

大問1.映像の内容を200字以内で要約しなさい。ただし、映像は5分のインターバルを挟み、2度流す。

 

※参考回答

小林賢太郎はスタッフから追加のコントを制作を依頼される。お題は「3D」。

初めはとっかかりを得られず困惑気味だった小林、まずは3D映像を体験しながら、3D放送ではない番組で3Dを再現するための策をねる。そして3D映像の特徴が「奥行があること」「ないものがあるようにみえること」だとつかみ、その特徴を簡単な装置で実現するため様々な試行錯誤を重ねる。結果、自分との共演という形で、みごとコントを完成させた。

 

大問2.映像の内容に対して感じたことをもとに、①問いやテーマを立て、②それにもとづいて自分の考えを400字以上600字以内で述べなさい。

 

※参考回答

なぜ彼はもがくのか?-ひとつの次元に問わられない柔軟な知性-

 

視点の制約はより良い思考や実践を阻む。しかし私たちの視点はどうしても限られている。一度に一つの視点からしか見ることはできないし、一つの立場でしか考えることができない。多角的に考えるというが、「多角的に考える」というのが既に一つの視点であり立場だ。決して制約から逃れ切ったわけではない。

どうすればいいのか。

大事なことは、もがいて「ねじれ」を生み出すことである。

印象的だったのが、小林が常に「ねじれ」を作っていたことだ。

例えば、自分との共演という発想は、単一の私という視点からみれば「ねじれ」である。

「二次元のものに三次元と書いてあったら何次元?」

「二次元のものに三次元のものが三次元と書いてあったら何次元?」

これらも「ねじれ」だ。 

カメラ枠をなんとか抜け出そうとしたり、最後にはその枠を脱し、舞台の全体像を私たちに一望的に映しだす。

そして私たちも視聴者であると同時に、私という枠で見ていることに気付かされる。

彼は柔軟な人間だが、それは彼が(おそらくは意識的に)もがき、「いま、ここ、わたし」という単一次元に留まらないための「ねじれ」を生み出しているからだ。

柔軟な知性を得るには、自らの視野狭窄を自覚し、自らに多種多様な視点を混沌と共存させておく必要がある。 

そのためには、思考を縦-横二次元で捉えるのではなく、常に「ねじれ」を含む三次元的、そして未知をも含む四次元的なものに保っておくことが重要ではないか。 

 

偉そうな事を書いているが、私が実際にそれをうまくできるというわけではない。
むしろ、私は自分が視野狭窄であることを常々痛感している。
なので、小林さんみたいな柔軟で頭がいい人には、無条件で尊敬の念を抱くのである。

頭がいい人が頭がいい人たるゆえんを私の足りない頭で形にしていくしかないが、これはこれで結構教育的な効果があるのではないだろうか(あってほしい)。

 

8日(火)

前日に続き、終日採点作業。

これまでに済ませていた集計を、念の為に全5科目分再度集計し直したあとで、教務システムに入力し保存。 

ふー。 

ようやく終了である。

成績認定に対する異議や質問、交渉などを水曜日17時まで受け付けることにしているので、まだ本提出は済ませていない。 

そういう意味ではまだ任務を完遂したわけではないが、とりあえず心理的にはこれで今学期の(契約上の)仕事はおしまい。 

これで3月1日まで、冬休みである。

ふふふ。

何をしよう。 

とりあえず、運動と中国語の勉強と作文教育の研究を柱に、休暇を過ごすつもりだ。

で、夜はワインでも飲みながら、映画や小説を楽しむのである。

ふふふ。

気分がいいので1時間ほど回り道をしながら家に帰って、お祝いにさっそくワインを飲む。

11時に就寝。

 

9日(水)

朝起きて窓の外を眺めると、雪が積もっている。

しかもまだまだ降り続いている。

これは大雪になりそうだ。

 

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大学・大学院時代に九州の南の果てで7年間過ごし、その後「中国三大火炉」である重慶で3年過ごした(夏には43度とか行くのだ、冗談ではなく本当にスニーカーの靴底が溶けてしまった)。

そのせいもあってか、私は最近寒さに弱くなったようだ。 

合肥は滞在3年目だが、毎年積雪している。 

とくに昨年は20cm~30cm積もったのを中心に、数回積雪した。

昨シーズン一番の大雪では、市内のバスの停留所の屋根が崩落して死者が出たし、私の住んでいるアパートでは入口に植わっている木がポッキリと折れて電線を切ってしまい、数時間停電した。 

その一ヶ月後に再び大雪となったが、そのときはちょうど私が日本から中国に戻ってくるときに重なってしまい、上海から合肥の飛行機がキャンセルになってしまった。 

仕方がないから上海で一泊し高速鉄道に乗って帰ってきた。

雪は綺麗だし少しワクワクもするが、困ることも多い。

 

契約上のお仕事は前日終わったし、成績の提出は家からでもネットでできるので、こんなに寒いならあったかいベッドのなかでぬくぬくと小説でも読んでればいいのだろうが、ほかにもいろいろと自分で勝手にやっている仕事(というか趣味だな)があるので、朝一で大学へ。 

外に出てみると、十分に着込んだ学生さんたちがチラホラと教室へ向かっている。

前期の授業と試験はとっくに終わっているのだが、うちの大学は第二専攻(第二学位)を勉強している学生さんのため、4週間にわたる「小学期」なるものがある。

SNSを見る限り、第二専攻をとっていない学生さんたちは旅行に行ったり遊んだりしているようだが、そういうときにも勉強する人はしてるんだね。 

こんな寒い中、朝からから夕方まで一日中教室に座っていないといけない学生さんも大変である。

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とはいえ、私も17時まで成績認定に関する異議や相談を受け付けるとお知らせした手前、夕方までは事務室にいなければならない。
雪で滑らないよう気をつけながら出勤する道すがら、「どうせ成績に関して物言いに来る人なんていないだろうに、なんでわざわざこんな面倒なことを……」と思う。

でも、そういう客観性を保つための回路を自分で確保しておくことは、結構大切だと思う。 

テストの問題と参考回答を公開しているのも、その回路のひとつである。

なにしろ私は主観的には「主観性が強い人間」なので(ほらね、すぐこういう自己規定をすることもひとつの主観性でしょ)。 

だから、自らの言動に客観性を確保する手立てに関しては人一倍気を使っていたほうがいいと思うのだ。 

加えて、恥を晒すようではあるが私は算数が(数学ではなく、算数が)苦手なのである。

このまえ、おとなりの大学の日本人教師I木先生とお話している時に「いや~僕は1月から3月まで冬休みですよ、3ヶ月も!ハッハッハ」的なことを口走った。

I木先生はとてもクールに「え、2ヶ月ですよね?」とツッコんでくださった。

そういえばそうだね。 

きっと「馬鹿かコイツは」と思われたことだろう(私もそう思う)。 

想像もしたくないことではあるが、もし私が私の学生だったら、採点を基準・運用・計算において、とりあえずは疑ってかかる。

すくなくともアカウンタビリティを求める。

だから、私は採点結果の集計を必ず2回はするし、紙に記載した成績をウェブに入力したあとも、入力ミスがないかどうかをわざわざ一日空けてまで確認する。 

テストの事後処理が面倒だというのは、私の場合、自分で面倒にしている部分もある。 

しかし、仕方がない。

学生さんにとっては、ほかならぬ成績の問題である。

それに、こういう手間を惜しまなければ、自分の「ミス」の法則性が少しづつわかってくる。 

私の場合、規則正しいペースで作業が進み出したときが、いちばん「危ない」。 

たとえば、積み重なった答案用紙をめくり、それぞれの名前を確認し、各大問の点数欄を指差し確認しながら電卓を叩き集計し、そうやって弾き出しだ総合成績をもう一度名前を確認しながら成績一覧表に記入していく作業は、作業がある程度進んでくるとペースがつかめ、リズムが生じる。 

そういうときが危ない。 

ペースやリズムにうまく「はまる」タイミングで電話が鳴ったり、声をかけられたり、外で大きな音がしたりして一旦作業がほんの一瞬中断すると、そのほんの一瞬の「空白」分「ズレ」てしまうことがある。

その結果、うっかり答案の氏名確認を忘れたりすることがある。 

そのうっかりに、ほかのうっかり(たとえば答案が出席番号順に並んでいなかったとか、教務の準備したリストに不備があったりとか)が重なると、大きなミスにつながるかもしれない。

だから、私は必ず日を空けて採点作業を再確認することにしている(リズムが変わるから)。

ある意味では、文章の推敲作業と似ているかもしれない。 

私が夢中で何かをしているとき、たしかにそのことによって作業効率が高くなり、リズムが生まれ、思考のエンジンに火が入り、ギアが順調に噛み合いだす。 

そのおかげでものごとに深く潜ることができたり、鋭く切り込むことができたりする。 

しかし、あくまでそこには「俺」しかいない。 

もちろん、それでいいのである。 

何かに集中するときに、自分のなかに「俺」のほかの「私」なんかがいて、そいつにいちいち耳元で話しかけられたら、「俺」の作業は一向に進まない。 

でも、「俺」だけによってなされた作業を「私」のチェックなしに自分の仕事とすることはできない。 

だからいったん「寝かせる」のである。 

文章執筆にしても、試験の採点のような事務処理にしても、「寝かせる」ことで浮かび上がる自分のミス、つまりバカさ加減には、きっと何らかのパターンがあるはずだ。 

それをチェックする手間暇は、自分のなかに「俺」と「俺」にそっと耳打ちしてくれる「私」を共存させておくためには欠かせないことだと思う。

普段の私をよくご存知の方はみな首肯されることだと思うが、別に私は「細かい」タイプではないし、「慎重」な性格ではない。 

むしろ「おおざっぱ」であり「無神経」であり、「がさつ」な人間である。 

その私の性格が却って私にこのような認識と行動をもたらしていることは、非常に興味深いことである。 

何が言いたいのかって?

そう、ご賢察のとおり。 

こんな雪の日にわざわざ教師を訪ねて来るような奇特な学生さんなどいそうもなく無聊を託っているので、こんなことを考えているのである。

 

などと思っていたら、なんと「奇特な学生さん」がおいでなさった。
4年生のCくんである。

さきにご紹介した「視聴説」の期末テストに関して、自分の記述に対する私の考えを聞きたいという。

彼はなかなか面白い学生さんだし、将来日本の大学院で研究したいとのことなので、「多角的に考えること」についてや「研究者とオタクの違いについて」についてなどなど、私の意見をお話する。 

こうやって学生さんと一対一でお話することは、私自身のコミュニケーション態度や知性の働きを批判的にチェックするうえで、非常に有益である。 

わざわざ「場」を設けていてよかった。

もし学ぶべきところがあったならば、是非かいつまんでいただければと思う。

加油!!

 

はい、ということで17時です。

教務システムに入力していた成績を提出して(提出ボタンを押すだけ)、事務処理でお忙しそうな同僚の先生方にご挨拶をして、「あがり」である。

お疲れ様でした。

来学期もよろしくお願い致します。