とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「ホントの私」が俗物で、何か問題でも?

ネットでこんな記事を見た。

「SNSで盛った自分」と現実の差に苦悩 デジタル普及で恋愛もビジネスも…〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース


いろいろ難しく書かれているが、そんなに難しく論じる必要がある話なのだろうか。 
snsで「盛った自撮り」や「インスタ映えする写真」を公開したり、リアルでは言えないような威勢のいいことをネットで発信するご自身の行動をよくよく振り返ってみれば、その行動が「みんなによく見られたい」という、人間誰にでもよくある俗な欲求からなっているということに気づくはずだ。 
それに気づいたなら、「現実の自分」とはそういう「よくいる、普通の、俗な」人間であるということを認めれば良いだけではないだろうか。 
そうすれば「理想と現実のギャップ」なんて感じないと私は思うのだけれども。
むしろネットのおかげで自分自身では気づきにくい自分の見栄とか欲望とか俗物さという「本当の私」に、より肉薄できるのではないか。
それに私はネットで自分を「盛る」ことそのものが悪いとは思わない。
重ねていうように、そういうのは誰にでもある、俗な、ごく普通の人間臭さである。
そしてそういう誰にでもある、俗な、ごく普通の人間臭さを咎めるつもりはない。(というか咎める資格なんてない、私自身がまさにそれだから)
しかし、「ごく普通の人間臭さ」を嫌い、「盛る」自分自身の欲望を否定したり無視したりしようとすることは問題だと私は思う。
「うふふ、私はsnsでは私を盛ってるけど、なにか問題でも?」でいいじゃないか。(清々しいし)

根拠なんてないので勝手な想像だが、SNSでの自撮りやインスタ映えなんて現象を見ていて思うに、「個性的な私」とか「自分らしさ」という考え方や価値観が重荷になっているような気がする。
「個性は素晴らしい」とか「誰もが個性的な存在だ」という価値観が常識として定着しているおかげで、今では誰でも努力なしに「個性」をアピールできる。
しかしいざアピールしようとして「自分の個性」や「私らしさ」を探してみれば、自分なんて大した個性的存在ではないといやがおうでも気づかざるを得ない。
ファッションに気を遣い自撮りアプリに工夫を凝らしても、そういうものは自分以外の誰にでも手に入るものだから、ネットに溢れる自撮りはどれもこれもがありきたりなものになる。
すると単純に先天的な顔面勝負になるので、むしろ努力すればするほど自らの没個性さが身にしみることになる。
それは結構きついのではないかと思う。(私は自撮りにまったく興味がないので、あくまで想像だが)
だから、自撮りでもインスタ映えでもなんでもいいけれど、それを「本当の私」とか「個性的な私」の表現として捉えるのではなく、むしろ自分がいかに俗でありきたりで一般的な存在かを自覚する機会として楽しめばいいんじゃないかと思う。
「自己満足ですが、なにか?」でいいじゃないか。
別にプロのモデルや芸能人じゃないんだし。
そうすれば、「なんだ、私もよくある人間だったのね。これで肩肘張って『個性的な私』とか『素敵な自分』をアピールしなくて済むわ、ラッキー!」みたいに心の平安を得ることができるのではないかと思う(「水屋の富」みたいだな) 
そして、そうやって安心したあと、開き直って自分の「よくある俗さ」を「みてみて!」とオープンに掘り下げていくことで、却って自分の個性とか独特さが浮き彫りになっていくのではないだろうかとも思う。
「個性」とは自分で客観的に把握できるようなものではなく、自分にとっての「俗で普通な私」が、むしろ周囲から「あいつなんかちょっと変だけど、まあそれがあいつらしさだといえばそうだわな」と思わぬ評価を得ることよって成立するものである。
だから、「私の個性は~」とか「俺って普通と違うから」とか言うような自己に対する批評性に欠ける人間ほど没個性的だったりするのである。

以前「水曜日のダウンタウン」で、スタッフが街ゆく人に「あなたの知り合いで最も変わっている人を紹介してください」と数珠繋ぎ方式でインタビューしてゆき、最終的に「ゴミ屋敷の主人」にたどり着こうとする企画をやっていた。
で、一人目にインタビューされたのがダンサーだった。
そのダンサーは自分の知り合いがとても個性的で変人であることをスタッフに告げ、その知り合い(これもダンサー)を呼び出した。
たしかに見た目は一般的ではない。
ご本人も自分は「変」だと豪語していた。
で、その「変」なダンサーにも「一番変な知り合い」を紹介してもらい……というふうに数珠繋ぎをやっていった。
結果から言えば、この数珠繋ぎは8人連続で「ダンサー」が続いたのである。
それをみて私は「なんだ、変だ変だと言いながら、内輪の価値観でじゃれあっているだけの、よくいる人たちじゃん」と思った。
いかに奇抜なカッコをしようと、奇々怪々な言動をとろうと、それが「私は個性的だ!」というよくある俗な願望からなされている限り、私はそれを「個性」とか「変」だとは言えないのではないかと思う。
だって、そんなのどこでも目にするような、俗で、ありきたりな人間臭さだからだ。

話がそれた。
それとも、この記事に出てくる事例は、「盛った自撮り」や「インスタ映えする写真のような生活」のほうが「あるべき本当の私」で、現実の自分は「あるべきではない私」だと思っていて、その落差に悩んでいるということだろうか。 
申し訳ないが、それは「理想と現実のギャップ」ではないと私は思う。 
それはただ単に自己評価が適切になされていないだけである。 
「他人によく見られたい」というのは俗ではあるが、人間誰でもいだく欲求だから、私は別にそれを悪いとは思わない。
私も他人によく見られたい。 
しかし「私は本来今以上によくあるべきなのに、現実そうではない」と思い、「本来以上によくあるべき」自分を自分で「盛って」、「盛った」自分自身との落差に勝手に落ち込むなんてことは、現実の自分をクールに見据えて考える知性が順調に働いていれば避けられることだと思う。 
どう考えても、本当の私とは「盛られた私」ではなく「盛るという行為をする私」にほかならない。
そこを誤魔化すから、ありもしない「私」の方にリアルさを感じ、もっとも確実に存在している「いま、ここ、わたし」を受け止められなくなってしまうのではないだろうか。
それは教育の問題でもSNSの問題でもなくて、純粋にご自身の知性の問題だと私は思う。