とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

かわいい子には旅をさせよ。

今日は6月1日。

日本では梅雨の足音が聞こえてくる時期であるが、梅雨が存在しないここ合肥は今日も青々とした空が広がる30度の夏日である。

そんな本日6月1日、中国では“儿童节”(児童節)、日本で言うところの「子どもの日」である。

なぜ中国では6月1日が「子どもの日」かというと、1949年にモスクワで制定された「国際児童デー」 に由来するそうであるが、詳しくは不明。

ご存知のように日本では5月5日の「端午の節句」が「子ども」の日であり、これまたご存知のとおり「端午の節句」は中国由来の風習なわけであるが、中国の「端午の節句」には「子どもの日」という意味合いは存在しない(というか、そもそも旧暦の5月5日こそが「端午節」なわけで、日本のように新暦に則って祝うわけではない)。

ではなぜ日本では「端午の節句」が「子どもの日」となったかというと、奇数を不吉とする中国では「5.5」と奇数が並ぶこの日、穢れを祓うさまざまな風習が存在した。

なかでも菖蒲の葉を用いるという風習が日本へ伝わり、その後の武士社会において「菖蒲」(しょうぶ)が「勝負」に通じることから5月5日は『菖蒲の節句』として定着し、さらに武士たちが自らの男児の健やかな成長を祈るために馬印やら幟やらを立てたことから「子どもの日」要素が誕生し、それが現在では「子どもの日」として定着しているわけである(あーめんどくさい)。

そんなわけで、中国の5月5日に「子どもの日」要素はなく、6月1日が「子どもの日」として定められているわけである。

そんな「子どもの日」。

授業は午後から。

なのでお風呂にゆっくり浸かりながら、ビリビリ動画(日本のニコニコ動画のようなもの)で、2週間前の「視聴説」の授業で使った映像資料であるCLAMP原作のアニメ『xxxHOLiC』第14話・15話を復習する。

この話の中心テーマは「言語と認識」だと私は思うんだけど、それは置いておいて(興味がある方はDVDやらインターネットでご覧下さい)。

さっき見ていたら、別な点に急に気を取られた。

第15話。

話は「変わりたい」と望む登場人物(双子のお姉ちゃん)が足掻きもがくシーン。

この話の流れで「かわいい子には旅をさせよ」とのコメントが流れた。

おお、なるほどね。

唐突に関心。

日本人として32年生きてきたけれど、「ああ、この言葉の意味ってそういうことだったんだ」と、不意にはっとさせられた。

それはつまり、私がこれまで「かわいい子には旅をさせよ」という語句に関して辞書や自分の狭い経験で持っていた理解が、アニメという物語を経由し、そこにアニメという物語を共有した他者のコメントが加わることで、「かわいい子には旅をさせよ」という語句のさらなる深みにたどり着けたということである。

私がさっき感じた「はっとさせられた」を無理やり言語化すれば、まあそんな感じ。

そういえば、この回のタイトルって「カイホウ」(解放)だもんね。

この経験から私が思うに、「はっとさせられる」っていうのは、主体的に自己という主体を未知へと投げ出し、より偉大な客体的存在を通過させることで、「主体的に主体から抜け出す」という、新鮮さに溢れる営みである(ああ、くどい表現だな)。

日常的な言葉を使って、一言で言おう。

つまり「旅」である。

「旅」とは「はっとさせられる」の連続である。

言っておくけれども、それは距離や場所の問題ではない。

距離的に遠い場所に行けばいいとい問題ではない。

重ねて言うが、それは「主体的に主体から抜け出す」営みなんだから。

バカはいくら世界一周してもバカのまま帰ってくるし、賢者は自室に籠っていても「旅」ができる。

「旅」とはそういうものである。

さらに重ねて言うが、私がここで言う「旅」とは、「まったく違う自分となって帰ってくる」ことであり、「旅に出る」とは、そのような(文字通りの)冒険を自ら選択するという捨て身の行為だからである。

つまり、捨て身の行為なのである。

「ああ、仕事疲れた。ちょっと観光地に行ってリラックスしよう」とか、「ちょっくら世界一周して名を売って金儲けしよう」とか。

それを私がここで「旅」とみなさない理由は、以上の説明でご理解頂けるかと思う。

彼らは「旅」から戻ってきても、まったく精神的に変質していないからである。

旅行から彼らが戻ってくるのは見慣れた自分の日常である。

「旅」は違う。

「旅」は原理の問題として、「戻る場所」などない。

あるのは、「新しく訪れる場所」のみである。

さらにさらに重ねて言うが、それは距離や地理の問題ではない。

だから、私たちはその気になれば、別に旅行に行かずとも「旅」ができる(私個人としては「旅」には気持ちよい散歩コースと静かな居住環境が欠かせないが)。

話を戻す。

「かわいい子には旅をさせよ」について思弁を弄していたのであった。

もしさ、親にとってほんとうに我が子が「かわいい」ならば、親はどうすべきだろうか。

どう思います?

我が子が、「バカ」なまま、「世間知らず」なまま、「甘えん坊」のまま、そして何より「バカで、世間知らずで、甘えん坊で、何が悪いの? だって、こうしてパパとママが守ってくれているじゃん」と認識したまま、「あーん、かわいい子でちゅね~」とペットのように扱い、手元においておくこと。

それが「かわいい子」我が子に対してすべき親の振る舞いだろうか。

私はそうは思わない。

だって、親って(単純な自然の摂理からいえば)子より先に死ぬんだぜ。

バカで世間知らずで甘えん坊で、なおかつそんな自分を「何が悪いの?」と疑わない人間は、必ず他の人間の食い物にされる(もしくは他の人間を食い物にする)。

それって、子にとっては不幸だし、親にとっても不幸じゃありません?

私は不幸だと思うな。

だからこそ、いくらお腹と財布を痛めて育て上げた存在であろうとも、親はあえて可愛いわが子に「旅」をさせなければならないのである。

そう思えば、私の人生も、18才で高校を卒業し実家を離れたあとは、「旅」の毎日であった。

私の場合、別に親から「旅に出ろ」と言われたことはないし、「旅に出るな」と言われたこともない。

なんとなく自然に、高校卒業前後の私は、「ああ、家を離れたいな」と思った。

別に親や実家に不満があったわけでない(ほんとう)。

別に「俺は成長したいんだよ」という純粋な気持ちばかりだったわけではない(当たり前じゃん、“心猿意馬”な男子高校生だぞ、舐めるんじゃないよ)。

そうしてなんとなく実家を離れ、鹿児島で7年間過ごした大学院卒業時点の私は、今度はある程度はっきりと「日本を離れたい」と思った。

とはいえ、別に故郷や日本に不満があったわけではないよ。

高校卒業とともに実家を出たときの私には意識できなくて、この時の私に初めて意識できたことがあった。

私はただ、私にうんざりしていたのである。

私はただ「変わりたい」と思っていたのである(だからこのアニメの双子のお姉さんには非常に共感する)。

私は変わりたかった。

別に親や家族や故郷や日本に愛想を尽かしていたわけではない。

自分に愛想を尽かしそうになりつつも、自分を諦められなかったのである。

だから、中国に行くという話を頂いた私はいてもたってもいられずに、ある日突然実家に帰省した。

そうして半年ぶりに会う両親に、まさに“开门见山”、「再来月から中国に1年行きたいんだけど、いい?」と「相談」した。

不当だよね。

もうその時点で「行く」って心づもりだったんだから。

そんなバカ息子に対してふたりが言ったのは、「それが自分で決めたことなら、ちゃんと責任持ってやれ」(父)、「やりたいなら是非やってほしいけど、健康にだけは気をつけて欲しい」(母)であった。

ここまで書いてやっと最初に言いたかったことがわかった。

ああ、そうか。

ほんとうの意味で子が「旅」に出るってのは、「おら、お前は旅に出ろ」という親の押しつけであっていいはずないもんね。

むしろ、子どもがある日突然、「俺、ここ出ていくわ」とわけも分からないことをいい出すことの方が自然なわけである。

そして、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉が成り立つためには、そんなバカな子どもを(自分たちだってわけも分からないまま)、「ああ、そう? それなら、さあ旅に出てらっしゃい。気をつけてね(たまには手紙書いてね)」と送り出せる親なしにはありえないもん。

子どもにだって「なぜおいらはここを離れたいのか」なんて、分からない。

そして、それが分からないからこそ、子どもにとって「旅」が必要なのである。

お父さんお母さん、ありがとうございます。

「旅」に出て7年、やっとここまでわかりました 。

以上は私の「中間レポート」です。

ただし、まだまだ「中間」です。

なおかつ「期末」は未指定なのです。

だから、あなたたちの野良息子は、おそらくまだ当分「旅」から帰りません。

ごめんなさい。

でも、あなたたちだって、「じゃあ、行ってらっしゃい」と野良息子を送り出した時点でこうなると、きっとわかっていたはずですよね。

だって、あなたたち2人が産んで育てた子どもだもの。

身に覚えはあるでしょう?

ありがとうございます。

 

以上、「子どもの日」の雑感でした。