とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

「ホントの私」が俗物で、何か問題でも?

ネットでこんな記事を見た。

「SNSで盛った自分」と現実の差に苦悩 デジタル普及で恋愛もビジネスも…〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース


いろいろ難しく書かれているが、そんなに難しく論じる必要がある話なのだろうか。 
snsで「盛った自撮り」や「インスタ映えする写真」を公開したり、リアルでは言えないような威勢のいいことをネットで発信するご自身の行動をよくよく振り返ってみれば、その行動が「みんなによく見られたい」という、人間誰にでもよくある俗な欲求からなっているということに気づくはずだ。 
それに気づいたなら、「現実の自分」とはそういう「よくいる、普通の、俗な」人間であるということを認めれば良いだけではないだろうか。 
そうすれば「理想と現実のギャップ」なんて感じないと私は思うのだけれども。
むしろネットのおかげで自分自身では気づきにくい自分の見栄とか欲望とか俗物さという「本当の私」に、より肉薄できるのではないか。
それに私はネットで自分を「盛る」ことそのものが悪いとは思わない。
重ねていうように、そういうのは誰にでもある、俗な、ごく普通の人間臭さである。
そしてそういう誰にでもある、俗な、ごく普通の人間臭さを咎めるつもりはない。(というか咎める資格なんてない、私自身がまさにそれだから)
しかし、「ごく普通の人間臭さ」を嫌い、「盛る」自分自身の欲望を否定したり無視したりしようとすることは問題だと私は思う。
「うふふ、私はsnsでは私を盛ってるけど、なにか問題でも?」でいいじゃないか。(清々しいし)

根拠なんてないので勝手な想像だが、SNSでの自撮りやインスタ映えなんて現象を見ていて思うに、「個性的な私」とか「自分らしさ」という考え方や価値観が重荷になっているような気がする。
「個性は素晴らしい」とか「誰もが個性的な存在だ」という価値観が常識として定着しているおかげで、今では誰でも努力なしに「個性」をアピールできる。
しかしいざアピールしようとして「自分の個性」や「私らしさ」を探してみれば、自分なんて大した個性的存在ではないといやがおうでも気づかざるを得ない。
ファッションに気を遣い自撮りアプリに工夫を凝らしても、そういうものは自分以外の誰にでも手に入るものだから、ネットに溢れる自撮りはどれもこれもがありきたりなものになる。
すると単純に先天的な顔面勝負になるので、むしろ努力すればするほど自らの没個性さが身にしみることになる。
それは結構きついのではないかと思う。(私は自撮りにまったく興味がないので、あくまで想像だが)
だから、自撮りでもインスタ映えでもなんでもいいけれど、それを「本当の私」とか「個性的な私」の表現として捉えるのではなく、むしろ自分がいかに俗でありきたりで一般的な存在かを自覚する機会として楽しめばいいんじゃないかと思う。
「自己満足ですが、なにか?」でいいじゃないか。
別にプロのモデルや芸能人じゃないんだし。
そうすれば、「なんだ、私もよくある人間だったのね。これで肩肘張って『個性的な私』とか『素敵な自分』をアピールしなくて済むわ、ラッキー!」みたいに心の平安を得ることができるのではないかと思う(「水屋の富」みたいだな) 
そして、そうやって安心したあと、開き直って自分の「よくある俗さ」を「みてみて!」とオープンに掘り下げていくことで、却って自分の個性とか独特さが浮き彫りになっていくのではないだろうかとも思う。
「個性」とは自分で客観的に把握できるようなものではなく、自分にとっての「俗で普通な私」が、むしろ周囲から「あいつなんかちょっと変だけど、まあそれがあいつらしさだといえばそうだわな」と思わぬ評価を得ることよって成立するものである。
だから、「私の個性は~」とか「俺って普通と違うから」とか言うような自己に対する批評性に欠ける人間ほど没個性的だったりするのである。

以前「水曜日のダウンタウン」で、スタッフが街ゆく人に「あなたの知り合いで最も変わっている人を紹介してください」と数珠繋ぎ方式でインタビューしてゆき、最終的に「ゴミ屋敷の主人」にたどり着こうとする企画をやっていた。
で、一人目にインタビューされたのがダンサーだった。
そのダンサーは自分の知り合いがとても個性的で変人であることをスタッフに告げ、その知り合い(これもダンサー)を呼び出した。
たしかに見た目は一般的ではない。
ご本人も自分は「変」だと豪語していた。
で、その「変」なダンサーにも「一番変な知り合い」を紹介してもらい……というふうに数珠繋ぎをやっていった。
結果から言えば、この数珠繋ぎは8人連続で「ダンサー」が続いたのである。
それをみて私は「なんだ、変だ変だと言いながら、内輪の価値観でじゃれあっているだけの、よくいる人たちじゃん」と思った。
いかに奇抜なカッコをしようと、奇々怪々な言動をとろうと、それが「私は個性的だ!」というよくある俗な願望からなされている限り、私はそれを「個性」とか「変」だとは言えないのではないかと思う。
だって、そんなのどこでも目にするような、俗で、ありきたりな人間臭さだからだ。

話がそれた。
それとも、この記事に出てくる事例は、「盛った自撮り」や「インスタ映えする写真のような生活」のほうが「あるべき本当の私」で、現実の自分は「あるべきではない私」だと思っていて、その落差に悩んでいるということだろうか。 
申し訳ないが、それは「理想と現実のギャップ」ではないと私は思う。 
それはただ単に自己評価が適切になされていないだけである。 
「他人によく見られたい」というのは俗ではあるが、人間誰でもいだく欲求だから、私は別にそれを悪いとは思わない。
私も他人によく見られたい。 
しかし「私は本来今以上によくあるべきなのに、現実そうではない」と思い、「本来以上によくあるべき」自分を自分で「盛って」、「盛った」自分自身との落差に勝手に落ち込むなんてことは、現実の自分をクールに見据えて考える知性が順調に働いていれば避けられることだと思う。 
どう考えても、本当の私とは「盛られた私」ではなく「盛るという行為をする私」にほかならない。
そこを誤魔化すから、ありもしない「私」の方にリアルさを感じ、もっとも確実に存在している「いま、ここ、わたし」を受け止められなくなってしまうのではないだろうか。
それは教育の問題でもSNSの問題でもなくて、純粋にご自身の知性の問題だと私は思う。

日記(爆竹、映画、パンク)

2日(土)

昼前まで爆睡。

11時ぐらいにベッドから這いずり出し、シャワーを浴びる。

そのまま活動を開始するかと思いきや、またもやベッドに戻り、本を読んだりネットをチェックしたりして、ぐだぐだ過ごす。

しかし流石に「これじゃいかん」ということで、三時過ぎに重い腰を上げ、買い出しついでに近所の「杏花公園」まで行って5キロほどジョギングする。

公園内では蝋梅がまさに咲き誇っている。

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蝋梅は見た目が美麗であるのみならず香りが品が良い甘さので、ジョギングの足を止め、立ち止まってくんくんする。

この公園は緑や花々が豊かで、さらには観覧車まで備えた小さな遊園地を備えていて、子どもからお年寄りまで楽しめるものとなっている。(おお、ザ・ストックフレーズ)

だからなのか、この公園では様々な人が思い思いにいろんなことをしている。 

今日見かけたのは石畳に水で漢字をさらさらと書きつらねてゆくおじいさん。

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みごとな達筆である。

達筆すぎて全く読めない。

なんだかありがたい名人芸のような気もするが、私はこれをいろんなところに足を運ぶたびに目にする。

ようは「ゲートボール」のようなものである。

なんだろう、おじいさんたちの間でも「インスタ」みたいな社交ツールやLineのグループみたいな機能があって、そこでこういう活動についてシェアしあったり、技を高めあったりしているんだろうか。

最初に見たときは「うわ、すげえ」と感動したが、今ではなんの感慨もない。

道行く人たちも見飽きているので、おじいさんが書き連ねた文字に一瞥もくれることなく、むしろ文字の上をスタスタと歩いてゆく。

まあ、公園の出入り口につながる道の上いっぱいにデカデカと書かれているので、そうせざるをえないわな。

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公園の出入り口には春節の飾りつけがされている。

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春節といえば赤い飾り付けに爆竹。

この時期には街が色とりどりに飾り付けられ、楽しそうである。

6年前に初めて中国で春節を過ごした夜は、まるで銃撃戦が始まったかと思うほどの爆音で爆竹が鳴らされていた。

私は長崎県の出身なので、爆竹の音をうるさいと感じるより先に、ノスタルジックな気分になってしまう(長崎ではお盆に爆竹を鳴らす風習がある)。

とはいっても、さすがは本場中国。

モノがちがうので音量も比べ物にはならない。

以前授業で長崎の精霊流しのビデオを学生さんたちにお見せしたら、帰ってきたのは「なんか、静かですね」という反応だった。

まあ、だろうね。

春節を体験したあとによくわかったよ。

中国で売られている爆竹は、日本の爆竹のように小さいものが数十連発なんてちゃちな代物ではない。

長さにしておよそ5センチ近くの爆竹が100発単位でとぐろを巻いて連なっている。

ちょうど戦争映画なんかに出てくる機関銃の弾丸のような感じである。

春節の時期には昼夜を問わず爆竹が鳴り響き、たいへん賑やかな雰囲気に囲まれ、結構なことである。

しかし、去年から急に変わった。

私が住んでいる合肥市内では爆竹が禁止されてしまったのである。

市内の張り紙を見る限り、爆竹を鳴らすことも、売ることも、携帯することすらダメらしい。

「いや、そんなこといったって、年越しの瞬間には数発ぐらい鳴らすやつが出てくるだろう」と半ば期待していたのだが、去年はもののみごとに一発の爆竹すら目にもしなかったし、耳にすることもなかった。

聞けば、違反すれば罰金500元とのこと。

罰金の力、恐るべし。

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3日(日)

 

「日曜日はねじを巻かない」ので、先週同様映画を見て過ごす。

なぜだかわからないが「シコふんじゃった」(1992年、周防正行)と「スウィングガールズ」(2004年、矢口史靖)を立て続けに見る。

「シコふんじゃった」は、たしか小学生の時にビデオで見た記憶がある。(どうでもいいけど、これ、タイトルを思いついた段階で仕事は8割終わっている気がする)

今見返してみると、なるほど、大学が舞台だったのね。

小学生の時は「なんでこの人相撲をすることになったんだろう」と思ってた。

こういう「単位をあげるかわりに」的な話しは大学に入学する前にたくさん聞いたし、実際に「私のサークルに入ればこの授業の単位はやる」と講義で口にする教授も見た。

そういうのって、無味乾燥な受験生時代の数少ない希望というか、楽しみだった気がする。(もちろん他にも「大学に入ったら…」という仮定法で想起される様々な欲望が私の受験勉強を後押ししていたのだが、その詳細はこんなところでは明かせない)

今の時代、なかなか厳しくなってきて、こういう「取引」はできなくなっているのかもしれない。

そういう「取引」でも、学ぶものは結構あったりすると思うのだが。

物語自体はシンプルで、とくに何も思うことはない。

作中で描かれている当時の「イケてる」「おしゃれな」大学生のファッションや言動が、27年後の今から見ると「ダサい」。 

今この瞬間にキャンパスで「イケてる」「おしゃれな」大学生として振る舞っているつもりの方々は心して大学生活を送るようご忠告申し上げる。 

くれぐれも一時の流行り廃りで「盛った」自撮りを熟慮熟考無しで晒して後々後悔なさらぬよう。

なんて意地の悪いことを考える。

ちょっと気になったのが、劇中に出てくるイギリス人留学生が、日本からみた「日本をステレオタイプに語る外国人」のステレオタイプに思えること。(相撲部に入部するためにわざわざ契約書を交わすとか、ヌーディストビーチと相撲を比較し、美的に前者を肯定して後者を否定するところとか)

「そりゃ、おいら達の文化は外の人や世界から見れば変かもしれないけどさ、でもいいとこだってあるんだよ」という形で自分たちの文化や風習を誇ることは、たぶんどこでもやることである。

それ自体は素朴な感情だから別にいいんだけど、それを自分たちが作り上げた「外の人」や「世界」に代弁してもらうのは、趣味が悪いと思う。

あ、でもこういうのも典型的な語り口だな。

やめとこ。

 

「スウィングガールズ」は上映されている時に映画館で見た。

私はほとんど映画館に足を運び映画を見ることはない。

たぶん記憶にある限り、映画館で映画を見た回数は両手で数えられる程度だと思う。

えーと、記憶を辿ると、最後に映画館で見た映画が「インセプション」(2010年)だから……もう9年も映画館というところに行っていないことになる。

このまえ中国では「トトロ」が上映されて、そのことが日本でもニュースになっていたが、そのときにせっかくだから行こうかと思った。

でも、めんどくさくてやめた。

私は映像作品は家で一人でゴロゴロしながらみるのがいい。

私の人生で映画館に足を踏み入れた数少ないケース、それはたいてい人付き合いで映画そのものが目的ではなかった。

なにより他人と映画を見ていると、横に座っている友達だったり恋人だったり先輩だったりなどなどが、どう感じて何を思っているのか気になってしまい、作品に集中できない。

まあ、だから映画館ってデートの定番スポットだったりするんだろうが。

いい感じの仲にある男女が映画館に行って一緒に映画を見るのは、おそらく鑑賞後の会話でお互いを「品定め」するための前哨戦にすぎないのである。

「ねえ、さっきみたあれ、どう思った」

この質問は質問の形こそとってはいるが、「下線部における『僕』の心境を答えよ」が作品中の『僕』について尋ねているのではなく、問題作成者から「私の出題意図を正しく見抜くように」と命じられているのと同じように、映画云々より「私はどう思ったか、15秒以内で簡潔に答えるように」と求められているのである。

「どう思った?」という質問を素直に受け止めてしまうと「おしまい」である。 

 

「あれはさ、監督が『俺は説明なんかしないから、勝手にそれぞれ解釈してね』って意図で作ってると思うんだよね。たとえばさ、冒頭のシーンでやたらカメラの長回しとか、背景のみの描写があるじゃん。で、このシーンが意味してるのはさ、あれ? 大丈夫? 話聞いてる? ねえ、何か怒ってる? あ、わかった! お腹すいたんでしょ。ははは」

「……」

 

逆に、何も語らずとも、同じシーンで「はっ」と息を飲み、同じセリフに感涙し、同じ所作に爆笑するようであれば、その二人は同じ映画を鑑賞するというニュートラルな回路を通して濃密なコミュニケーションを成立させていると言って良い。

その後に同じものを食べたり、同じ本を読んだり、同じ景色を見たりして、それぞれが「コミュニケーションへのコミュニケーション」(by 内田樹)を確かめてゆき、ある程度の確信が持てれば晴れて「ゴールイン」となるのだろう。

包み隠さず言うが、私はこの手の「問い」や「コミュニケーション」が非常に苦手である。

それは私が「人間嫌い」だからではなく、単に「頭が悪い」からである。

隣に座っている人の「思っていること」よりも映画を分析したり勝手な感想をだらだらと考えるほうが楽しいだけである。

だって「正解」なんてないし。

大学時代お付き合いしていた彼女(当時はそんなものがいたのね)が、ある日レンタルビデオ屋で当時流行っていた「私の頭の中の消しゴム」を借りてきて、一緒に見ようと言い出した。 

別に断る理由もなかったので、ふたりでうちのカーペットの上にぺたんとすわって、缶チューハイ片手に最後まで見た。

こうして文章を書きながら、その作品の内容をまったく思い出せないところからすると、この作品は当時の私になんの感慨も残さなかったようである。 

でも、とりあえず最後まで見た。

で、何気なく横を見てみると、なんと彼女は号泣しているのである。

思わず「え、なんで泣いてるん?」と尋ねてしまった。

すると向こうさんは「え、なんで泣いてないん?」と逆質問なさった。

別に私が映画で泣かない冷血漢であるとか、向こうさんがどうこうではなく、単に「回路」が合わなかっただけの話である。

誰が悪いわけでもない。

 

なんだか話がだいぶそれた気がする。

で、ようは「人と一緒に映画を見ると気疲れするから、やだ」ということを言いたいだけである。 

上につらつら書いてきたような事を考えることですら「あ、これって俺が考えすぎてんとちゃう?」と気になってしまって、疲れるのだ(ブラマヨの漫才みたい)。 

「だいたい映画観るぐらいで、そこまで考えてるわけないじゃん、めんどくさい」

そうだね、ごめん。

 

なんの話をしているかというと、「スウィングガールズ」だった。

これは高校生の時、クラスメートと映画館で見た。

この時期にはすでにリサイクルショップでベースを入手して独学を始め、一人でブンブンやっていたので、結構楽しく見た。

グッズなどを買わない私にしては珍しく、売店で上野樹里が大きく写った下敷きも買った。

そんな作品を久しぶりに鑑賞。

関口(本仮屋ユイカ)が可愛い。

田舎で育った者としては、ほかの女の子達は田舎の女子高生オーラを出しきれていないけれど、彼女はとても自然。

ちゃんとお化粧すればとても美人なのに、本人にその気がないだけの地味な感じがとても良い。

で、最後の最後でちゃんと間を取るためにみんなを一括できたり、ちゃんと物語の要所要所でキーパーソンであるあたりも非常に良い。

前回も書いたが、こういう一見地味な人って人知れず平時にとても重要な役割を果たしていたりする。

いやあ、それにしてもJazzはカッコイイね。

どの曲もいい曲だし、最後のコンサートでの演奏シーンも好きだが、今回はバラバラになったメンバーたちがスーパーの店頭で再び結集するシーンで演奏されている“Make Her Mine”がやけに耳に残った。

ネットで調べるまで知らなかったけど、これって元々ジャズの曲ではなかったんだね。

てっきりジャズの曲だと思い込んで調べたら、ナットキングコールに同名の曲があったから勘違いしてしまった。

原曲はイギリスのThe Hipster Imageというバンドによるもの。

エドウィンのCMで使われていたらしいが、全く記憶にない。

で、原曲を聴いてみると、歌詞が「いつも見かけるナイスなあの娘と付き合いたいぜ」というナンパでチャラい感じで、これまたびっくり。

で、日本語版も発見したので聞いてみる。

うーん。

原曲の方は確かにナンパでチャラいけれど、いつも通りを歩いている女の子を気に入って自分ちから隠れながら眺めているだけだし、それが曲の気だるいサックスやコード進行とあってて、結構さらっとしている。

日本語版だと「みんな振り返るのさ あの娘が街を歩けば」とか「粘ってあの娘を待ち伏せてみても 眺め見るだけ」とか、なんか粘着的というか、ストーカーチックというか。

まあ、どっちにしても女の子はOKを出すんだけどね。

ふーん。


男子大学生の相撲部と女子高生のビックバンドという全く異なるジャンルの映画を楽しみました(あ、そういえばどっちも竹中直人が出てるな)

 

4(月)

今日は旧暦(中国語では“农历”、農暦)の除夜。

この時期は中国の皆さんは実家がある田舎に帰省するので、合肥からは車や人が消える。

さらに天気もだんだん晴れが続くようになり、ポカポカ陽気が多くなる。

なので、自転車乗りにとってはとても良いシーズンと言える。

今日は天気がいいので、久しぶりに巣湖まで行こうと思って愛車のMERIDAを引っ張り出した。

いつもとはコースを変え、金塞路沿いに走ろうと思い、明珠広場辺りまで行ったのは良かったのだが……。 
「プス、プス」と変な音がすると思って急停車すると、前輪がパンクしてた。

げげっ。

ロードバイクに乗り始めてからというもの、パンクに遭遇するのは初めてである。 
とりあえず応急処置を試みるが、手持ちの修理キットでは太刀打ちできない類のパンクである。 
新しいチューブに交換すればなんてことないのだが、あいにくその新しいチューブを持ち合わせていない。

近くで買おうにも今日は除夜なので、自転車屋さんはどこも閉まっている。 
仕方がないので引き返すことにする。 
引き返すのはいいのだが、乗ることができない自転車とともにどうやって帰ればいいのか。とりあえずタクシーを数台捕まえて「タイヤ外せばちゃんとトランクに入るから、自転車と一緒に乗っけて」といっても、断られるばかりである。 
一瞬どうしようかと途方に暮れた。
だけど、すぐ当たり前のことに気づく。

「そっか、歩いて帰ればいいんじゃん」 
幸いなことに、パンク地点は家から十数キロしか離れてない。 
これが家から40キロ近く離れた目的地あたりでパンクしていたらと思うと、恐ろしい。 

ラッキーだったと感謝。 
ついさっき乗って来た道のりを、今度はMERIDAをコロコロと押しながら歩く。 
天気が良い。

この道は前任校で働いていた時に、通勤のため半年間ほぼ毎日通った。

久しぶりに通ると、見たことがないアミューズメント施設やオフィスビルが雨のあとのキノコのように(おお、慣用的表現)にょきにょきと建っている。

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自転車で飛ばすのもいいが、ハンドルに取り付けたスマホから音楽を流しながら、愛車と「散歩」するというのもなかなか良いものだった。 

二時間半、約12キロの道のりを歩いて帰宅。
予定とは違う形だけど、ちゃんと十分な運動にもなった(消費カロリー700kcalなり)。 
ところで、道すがらの廃病院で「职业病科」(職業病科)って看板を目にしたのだが、これは何を看る部門なんだろう(労災関係?)。

「職業病」という文字を目にしてしまうと、怪しい人間を見かけると職質せずにはいられないお巡りさんとか、鮮度の良い肉を見ると思わず手がうずいて勝手に捌いてしまう肉屋さんとか、そういうそれぞれの仕事に病んだ人たちが待合室で一堂に会している様子を想像してしまう。 

「世にも奇妙な物語」とかにありそうで、けっこう面白そう。

そういう変なことを考えながら歩いたので、すぐ帰宅できた。

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今日は除夜なので、中国ではCCTV(NHKのようなもの)で日本の紅白のような番組が放送される。 

しかし全く興味がないので(そもそも紅白にだって興味ないし)、音楽を聴き、「あけおめ」メッセにお返事しながらゆっくり年を越す。

今年も0時を過ぎてもやっぱり爆竹の「ば」の気配すらない。

環境問題や騒音対策も大事だろうが、なんだか物足りない。

 

というわけで、みなさん明けましておめでとうございます。

「豚」年の今年もよろしくお願いします。(中国の干支では猪ではなく豚なのだ)

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スッキリしなくてすみません。

朝起きてニュースをチェックしていたら、こんな記事を読んだ。 

headlines.yahoo.co.jp


見出しによる刷り込みの影響が多分にあると思うが、これを読んで私は「うーん」と思ってしまった。 
とくに違和感を覚えた部分が、ここ。

お茶の水女子大学の決断は、すばらしいことだと思いつつ、私は一刻も早くこの世界から女子大というものが無くなればいいと思ってしまいました。

 女子大を無くしたい訳ではありません。女子大が必要の無い世界を実現したいのです。

 
誤解していただきたくないので、先に断っておくが、私は多種多様な人やものごとが存在して当たり前だし、それを「必要性」や「合理性」で画一化したり一般化して論じるべきではないと思う。
私は「男らしさ」とか「女だから」とか「日本人は」とか「九州男児のくせに」のように、その人間のある属性を持って、人間を「一般化」したり「画一化」して論じる語り方が嫌いである。
そういう枕詞をふれば自分で考えずともストックフレーズがつらつらと出てくるし、そういう文章や考えは、読んでいてたいへんつまらない。
なにより自分のたまたま生まれ持った属性で簡単に「一般化」されたり「画一化」されると腹が立つ。 
以前うちの大学が開いた公開講座では、国内外からさまざまな偉い先生が来て、それぞれ「日本人」論を述べられた。 
そのなかには、申し訳ないが「うーん」と感じるものもあった。 
もっともそこで述べられた「日本人」像の来源には、個々の日本人の具体的な言動が一部あるわけだし、私自身が「日本人と私」についてどう思おうと、日本に生まれ育ち日本語を母語とする「日本人」であり、そのバイアスから逃れられない以上、私は私自身の「うーん」を批判的かつ分析的に見たほうがいいだろう。 
なにより私の「中国人」像だって、同じようなものかもしれない。 
だからこういう問題を考えるときに大切なことは、一方が高所から鋭く「学術」的に分析することだけではなく、お互い向かい合い、膝を交えながらやろうという態度ではないかと思う。 

「あ、きみほっぺにご飯粒ついてるよ」 
「わ、ホントだ、ありがとう」 
「あれ、でも君も片足だけブーツインしてるよ」 
「あら、恥ずかしい」 
「ははは」
「うふふ」

みたいに。
もっとも、講座では様々な先生が典型的な「日本人」像を提示したあと、学生さんに「みなさんの日本人の先生はどうですか?」とマイクを向けた。 
ほとんどの学生さんの反応は「うーん」というものだった。
この「うーん」には、「うーん」という反応をされる当事者として深く分析すべきものが多く含まれている気がするのだが(「うーん、本人がいるから言えない」とか「うーん、論じるに値する人物ではない」とか)、まあそれはそれとして。 

閑話休題。 
だから、この高校生が少数派として、社会の不理解から様々なものを感受し、自らの存在意義について問うことで、苦労したり悩んだりすることが避けられない立場に居るのだということは理解できる。 
そして、当事者として「こういうこと」をいうのもわかる。 
しかし、女子大という存在は、今の日本では明らかに少数派の存在である。
社会からの理解を得たり、自らの存在意義を問うことで、現在の女子大関係者は相当苦労したり悩んだりしているはずだ。
「女子大は時代錯誤だ」などという声もある。
しかし、私は思うのだが、少数派だったり目立たなかったりする存在は社会が気づいていないだけで「合理的」な存在意義を担っていることがある。(手塚治虫が『ブラックジャック』「六等星」で教えるように) 
そういう意味で、私は原理から言えばすべての存在が潜在的には「必要性」や「合理性」を帯びているのではないだろうか、と考えている。(もちろん実際にはないこともあるのだろうが)
世界やものごとは複雑だし、人間の頭はあまりよくない。 
あまりよくない人間の頭が世界や物事を「スッキリさせたい」と「一般化」や「合理化」を望むときに、私たちはあまり急いではいけないと思う。
だから私はこの種の性を巡る議論に、「スッキリさせたい」という態度をとらないことにしている。
私はこの種の議論に「スッキリ」した答えを持たないが、それは私がこの種の議論にあまり関心がないとか知的にとても怠慢であるというよりも(あまり関心がなく、とても怠慢だが)、「この種の議論にはスッキリした答えを持たないほうがいい」と考えるからである。
でも、この高校生は「一刻もはやくこの世界から女子大がなくなればいい」と思っている。
しかも善意からそう願っているのである。
当人の善意がどうであれ、私の目には、これは「スッキリ」した語り方、「スッキリさせたい」という考え方に映る。 
それが彼女の善意からなる思いだということを、私は信じる。 
しかし、現在少数派である存在を「なくなればいい」と願うことは、結局は自らの「男らしさ」や「女らしさ」を所与の前提として疑わずに物事を論じ「画一化」し「一般化」するバカたちが通った轍を踏むことに繫がるのではないか。
彼女は続けて「女子大をなくしたいわけではありません。女子大が必要のない世界を実現したいのです」と言っている。 
もちろんこれは女子大が存在することを「いまだ男女平等が実現しておらず、さまざまな性差が存在するからだ」という認識に基づいて理解しているからである。
だから、「女子大が必要ない世界を実現したい」とは、つまり「男女平等を実現し性差が撤廃された」世界を実現したいという純粋な想いから出た言葉である。
それはわかる。
しかし、それでも私はここに少し知的に不遜な態度を感知する。 
彼女は女子大の「必要性」について、どの程度のことを「わかって」いて、それはどのぐらい「正しい」と思っているのだろうか。
彼女は自分の「実現したい世界」について、どのくらい自己批評的なのだろうか。 
もちろん女子大のような少数派が如何に成立したのかという背景や、存在意義を勉強し、そこから現代的な「必要性」を算出し、比較考量のうえで「必要性」がないと主張することは誰にでもできる(手間暇を惜しまなければ)。
「既に起きた」ことを巡る議論だからだ。 
しかし、女子大のような少数派がこれからどのような豊かで個性的なパフォーマンスを見せ、社会に「必要」とされるかということは、誰にも正確に予測できない。(女子大関係者自身ですら)
「未来」に関する議論だからだ。
「未来」に関する議論において、決定的アドバンテージを保持するものなど存在しない。
だって「未来」に関する議論なんだから。 
予測された時点で、それは「未来」ではなく、「未来性」を決定的に失われている。 
私の経験的に、「未来」に関して「俺は他のやつより読めている」という人間は「眉唾もの」である。
そこに「べき」論が絡んでくると、なおさらである。
もちろん彼女はそんなことは言っていない。
しかし、自らの「したい」論によって現在少数派である女子大という存在を「なくしたい」と思うに至っている過程には、十分注意したほうがいいのではないかと思う(余計なお世話だろうが)。
もうひとつ気にかかるのは、「現在は仕方がないけれど必要性があるので女子大はあっていいが、必要性がなくなればなくなってもいい」というロジックに関してである。
そもそも、「必要性」で「あっていい」とか「なくしていい」を論じていいのだろうか。
もちろんそういう論じ方が適切な場合もある。
しかし、そうではない場合もあるはずだ。
たとえば、この論じ方で性的マイノリティーを「必要のない」存在だとする論者がいる。 
重ねていうが、私はそういう論者に認知できる限りの「必要性」で、人間やものごとの存在を簡単に論じる議論に賛成しない。
「もし自分たちが『必要ではない』と気づいていないだけで、実は『必要だった』存在だったら、どうするの?」とか「必要性どうこうなんて論じなくても、いろんな人やものごとがいていいじゃん」と思うからだ。 
なぜなら、重ねていうが世界は私たちが簡単に一般化できるほど「スッキリ」したものではないと、私は考えているからだ。
そうである以上、私の世界観は「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」というものになる。
「なんだよ、結局そうやってスッキリさせてるじゃねーかよ」
そうだね。
この世界観を提示したあと、この世界観の中で自分ができることを行動しなければ、全く無意味なものかも知れない。
それでもこの定義ならば、「いや、俺は世界はスッキリしていると思うぞ!」という「異論」でさえも、包み込めるからだ。
だって、「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ」したものではない』と私は考えているんだから。
私は当然「私たち」に含まれる。
そんな私が「私の考えのみが正しい」と思うほど「スッキリ」しているはずがないじゃないか。
それに、私は世界は驚く程「スッキリ」したもので、私たち人間が複雑すぎるとも考えているのだ。
「なんだよ、お前言ってること矛盾してるじゃねーか」
そうです。
だって(繰り返していうが)「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」んだから。
世界の一部である私たちだって、そんな「スッキリ」した存在であるはずがないじゃないか。
もちろん論文とか法体系とかで「矛盾」が許されないことはある。
それらはひとつの立脚点に基づき、平面的に系を伸ばしていくことで世界を説明する営みなので、同一平面上では「矛盾」が許されないし、ひとつの立脚点からしか説明ができない。
それらが間違っているとか不適切だとか言っているのではない。
それらは世界の一部を切り取ったものであるといっているのである。
世界というものは「ある」とか「ない」とか「平面」と「垂直」とか「賢者」と「バカ」とか、そういう二項対立がスッキリと組み合わさって成っているものではない。
しかし私たちの思考というものは「ある」と「ない」の二項対立でしか展開できないのである。
それでは世界を立体的に、包括的に語れない。
もちろん世界を一度で立体的に、包括的に語ることなど不可能だろうと思う。
だからこそ、世界を説明しようとするもののパフォーマンスは、もがき、ねじれ、スッキリすることがないのである。
以前このブログでも紹介した「日本語視聴説」のテストで学生さんたちに考えて欲しかったのは、そのことである。
いい機会なので、先月このブログに書いた拙文(というか、拙「試験問題」と拙「参考回答」だな)を引用しておく。
ちなみに試験でお見せした映像は、ラーメンズの小林賢太郎がやってる「小林賢太郎テレビ」より「3D」というコント作品とその制作背景である。

大問1.映像の内容を200字以内で要約しなさい。ただし、映像は5分のインターバルを挟み、2度流す。

※参考回答
小林賢太郎はスタッフから追加のコントを制作を依頼される。お題は「3D」。
初めはとっかかりを得られず困惑気味だった小林、まずは3D映像を体験しながら、3D放送ではない番組で3Dを再現するための策をねる。そして3D映像の特徴が「奥行があること」「ないものがあるようにみえること」だとつかみ、その特徴を簡単な装置で実現するため様々な試行錯誤を重ねる。結果、自分との共演という形で、みごとコントを完成させた。

大問2.映像の内容に対して感じたことをもとに、①問いやテーマを立て、②それにもとづいて自分の考えを400字以上600字以内で述べなさい。

※参考回答
なぜ彼はもがくのか?-ひとつの次元に問わられない柔軟な知性-

視点の制約はより良い思考や実践を阻む。しかし私たちの視点はどうしても限られている。一度に一つの視点からしか見ることはできないし、一つの立場でしか考えることができない。多角的に考えるというが、「多角的に考える」というのが既に一つの視点であり立場だ。決して制約から逃れ切ったわけではない。
どうすればいいのか。
大事なことは、もがいて「ねじれ」を生み出すことである。
印象的だったのが、小林が常に「ねじれ」を作っていたことだ。
例えば、自分との共演という発想は、単一の私という視点からみれば「ねじれ」である。
「二次元のものに三次元と書いてあったら何次元?」
「二次元のものに三次元のものが三次元と書いてあったら何次元?」
これらも「ねじれ」だ。 
カメラ枠をなんとか抜け出そうとしたり、最後にはその枠を脱し、舞台の全体像を私たちに一望的に映しだす。
そして私たちも視聴者であると同時に、私という枠で見ていることに気付かされる。
彼は柔軟な人間だが、それは彼が(おそらくは意識的に)もがき、「いま、ここ、わたし」という単一次元に留まらないための「ねじれ」を生み出しているからだ。
柔軟な知性を得るには、自らの視野狭窄を自覚し、自らに多種多様な視点を混沌と共存させておく必要がある。 
そのためには、思考を縦-横二次元で捉えるのではなく、常に「ねじれ」を含む三次元的、そして未知をも含む四次元的なものに保っておくことが重要ではないか。 

世界は複雑である。
それを説明しようとすればかならず「ねじれ」が生じる。
そこで「ねじれ」を「あるべきではない矛盾」として捉えるか、それとも現在の次元からの突破口として捉えるか。
まあ、それは今回のテーマには関係ないので、横に置いておく。
世界は複雑である。
しかし、私たちそれぞれがそれぞれの仕事の「一部」を持ち寄って積み重ねてゆき、結果的に縦横無尽、融通無碍な世界観を人類の共同作品として提出するためには、「世界は私たちが簡単に一般化できるほど『スッキリ』したものではない」という(無味乾燥だが実用的な)仮のルールを使ってはどうか、と私は思うのである。
で、それを実践しているつもりなのである。

ちょっと話がそれすぎた。
あまりよくない人間の頭が世界や物事を「スッキリさせたい」と「一般化」や「合理化」を望むときに、私たちはあまり急いではいけないと言っていたのであった。
あくまで私にとって、これは不完全な知性しか持ち合わせていない私が、その不完全な知性を完全に働かせて物事を論じる際の大事な態度である。
それに自分自身の胸に手を当てて考えてみれば、自分が「俺は世界をクリアカットに一般化できるぞ」という場合、その仕事によって世界が「スッキリ」説明されるというよりも、単に「俺がスッキリ」する場合が多いのではないか。 
少なくとも私のなかの「俺」には、そういう傾向が見られる。
確かに「俺」の「スッキリしたい」というプリミティブな欲望が「スッキリさせたい」という「知的欲求」に形を変え、なにか得るものがある場合も多い。
しかし、失うものが多いのも事実である。(論考の慎重さとか、他人への寛容さとか、文章の深さとか、言動の節度とか……) 
あくまで私の場合、「俺は世界をクリアカットに一般化できるぞ」という態度で何かを論じた結果、得たものより失ったもののほうが多かった気がする。
だから、私は自分が「必要性」を論拠にし始めたときには、「これって眉唾ものじゃない?」と警戒することにしている。
なので、女子大のような「時代遅れ」で「非合理的」で「不必要」だと言われ始めている少数派的存在を論じる際、私たちは自分の「時代」や「合理性」や「必要」について、自省してみる必要があると思う。
そして実は女子大のような少数派的存在には、女子大関係者を含め私たちが気づいていないだけで豊かに有している時代性とか合理性とか必要性があるのではないだろうか。
そういうものを探して見つけ出す議論の方が、「なくす」議論よりも多様性に帰する生産的なものだと、私は思う。
それとも、「男女平等」とは、「女子大」とか「男子校」とか「宝塚歌劇団」とか「歌舞伎」とか、そういう「性別で分けられることで存在してきたもの」を自分たちの「必要性」の観点から「必要がない」ならば、全て「スッキリ」廃止することであり、そのような「画一化」を進める自分の考え方は絶対に正しいものであると「一般化」して、「スッキリ」することなのだろうか。 
繰り返すが、私は多種多様な人やものごとが存在して当たり前だし、それを「必要性」や「合理性」で画一化したり一般化して論じるべきではないと思う。
だからこそ、「〇〇はなくなればいい」という自らの欲望の見極めと取扱には、注意したほうがいいのではないか、そう言っているのである。
別に「必要性」なんて気にせずに、女子大でも男子大でもあっていいじゃない。
そう思う。
それは、私の「別に『男らしさ』とか『女らしさ』とかスッキリさせなくてもいいじゃん」という思いと同じところから湧き上がってくるものである。 
それが多様性ってことじゃないの?
それともこうやって高校生の発言に難癖つけている私も、「男」であるとかその他様々な属性の影響で、無意識のうちにさまざまな偏見やバイアスに囚われていて、にもかかわらず善意のうちにこのようなことを考え書いているんだろうか。 
だとしたら、謝ります。 
すみません。

日記(羊とガチョウと魚と「グルグル」)

1日(金)

 

早いもので2019年最初の月が終わった。

1月は我ながらよく働いたと思う。

冬休みなのにね。

まあ冬休みだからなんだけど。

 

前日の冷え込みから一転、今日は快晴で温かい。

昨日一面に降り積もっていた雪は一瞬にして溶けさってしまった。

本日もあいかわらず午前中から赤ペン片手に机に向かう。

積み上げられた原稿にゴリゴリと朱を入れてゆき、昼過ぎまでにはすべてのチェックが終了。 

追加でチェックのオーダーが入ったものが少しだけあるけれども、まあほぼ完成したといっていいだろう。

仕事を完成させると気分が良い。

気分がいいので散歩に出る。

大学近くの川沿いを一時間ほどトコトコ歩く。

歩くとお腹がすいたので、「羊肉麺」を食べるために羊専門の麺屋へ。

しかし、お昼どきを微妙に過ぎていたためか、「麺がなくなった」という。

「なくなった? じゃあ探してよ。 なに、切れた? なら繋いでよ」(By 立川志の輔) 

なんてくだらないことを思い出したが、ないならしかたがない。 

ほかの羊専門の麺屋へテクテク移動。 

しかし、今度はそこが「お正月休み」で閉まっている。

今日はとことん羊と縁がないらしい。 

ないならしかたがない。 

ということで、テキトーに目に入った「ガチョウ」専門の麺屋へ。

……羊専門の麺屋とかガチョウ専門の麺屋とか書いてしまうと、なんだが羊さんやガチョウたちが通う麺屋のようであるが、当然ながら「人間」専門の麺屋である。

こう書いてしまうと、まるで「人間」を中心に出して食させる……。

くだらんことを書くのはよそう。

で、このガチョウ専門の麺屋は「あたり」だった。

“鹅肠面”(ガチョウの腸が具として入った麺料理)を頼んだが、これがうまい。

スープも優しい味わいのなかに旨みがしっかり感じられるものだし、麺もコシがある。 

しかしなにより、主役の「ガチョウの腸」が素晴らしい。 

日本で口にすることはあまりないだろうから、食べたことがない方は想像するしかないだろうけれど、食感はコリコリした歯ごたえが楽しめる。

味は、特にない。

しかしこれはそもそも口触りを楽しむ食材なのだ。

こいつをしっかりした味わいのスープをまとったコシのある麺や、シャキシャキした青菜と一緒に口の中に放り込むと、なかなか不思議な口感である。

(小)を頼んで14元と少し割高だが、それだけ払う価値はある。

ズルズルといただく。

ごちそうさま。

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お腹が落ち着くまで、スマホでニュースを見る。

先日横浜の筒香選手が開いた会見で、高校野球に関して意見を述べた。 

そのことに対する朝日新聞(夏の甲子園主催)と毎日新聞(春のセンバツ主催)、両新聞社の報道対応を批判する記事が掲載されている。

何となく読む。

 読んだ。

以下は完全なる私の自己満足のために書いた文章であり、そうやって書かれた文章に批評性とか客観性とか合理性とか、そういう「よきもの」を期待されても困るので、「おまえの自己満足になんて付き合ってられるか」という方はスルーして頂ければ、と思う。

時間の浪費だし。

 

記事によれば、筒香選手の「新聞社が主催しているので、子供たちにとって良くないと思っている方がたくさんいても、なかなか思いを伝えられていないのが現状だと思う」という発言を報じた大手紙は、日経と産経だけ。 

高校野球の二大大会を主催している朝日と毎日はこの「新聞社が主催」という部分に、自社の記事では触れていないということだ。

筆者はそれを「金農旋風」を比較的理性に報じた東スポなんかを評価しながら、批判している。

「まあ、そうだよね」と思う。

昔はこういうニュースを見ると「それでもジャーナリストか!」みたいに憤っていた私だが、正直最近は個々の記者にそういうことを思うことはあっても(それすらかなり少なくなってきたが)、新聞社に「ジャーナリズムの精神に照らし合わせて…」などと憤ることはまったくない。(皮肉としては言うが)

人間がモノを言う以上、その背後には必ず(自分でも意識していない)欲望が隠れている。 

それはたんに金や力を巡るものではなく、自分たちが理想とする「らしさ」や、他人に期待する自分への「らしい」に、私たちは(自分でも意識しないまま)誘われ引きずられ囚われるということである。 

まさか、毎日や朝日が不偏不党で客観公正な新聞社であると「思っている」ひとはいるまい。(信じている人はいるかもしれないが)

それは別に毎日や朝日がどうこうという問題ではない。

そもそも不偏不党で客観公正な人間などいない、という「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことを、私は言っているのである。 

だから、まさかこの「新聞社主催」を報じた日経や産経、金農旋風の中で「美談一色の朝日」よりも「はるかに問題意識を持っていた」東スポなどが、朝日や毎日より不偏不党で客観公正な新聞社である、などと一般化するほど頭が悪い人もいるまい。 

そして、この記事の筆者も、この記事を読んでいる読者も、まさか自分が不偏不党で客観公正であるなどとは思っていまい。 

それぞれの記者や新聞社はしがらみにとらわれているし、それぞれのやり方で偏っている。

それぞれの記事やニュースを読む読者はしがらみにとらわれているし、それぞれのやり方で偏っている。

この記事を読んだ私は私なりのしがらみにとらわれているし、そのしがらみのなかでこの文章を書いている。

それは「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」な事実である。 

だから、それぞれのしがらみにとらわれて、それぞれのやり方で偏っている我々は、多種多様で種々取り取りな情報の中から、人それぞれの思い思いのやり方で「正しい」と思うことや「確からしい」と感じることを見つけていけばよいのではないかと思う。 

私がこの記事を見て思ったのが、こういう話題になると「情報弱者はマスコミにすぐ騙される」という「情報強者」がたちまち姿を現し、彼らには見えていて「情報弱者」には見えていない「確かなこと」や「正しいこと」の啓発活動を始めるということである。 

彼らはマスコミの不誠実さやインチキさを糾弾しながら、一方で「俺は真実を知っているが、俺が知っている真実をしらない(バカな)人間が多過ぎる」ことや「世の中には自分の頭で考えない人間がいる(俺は違うけど)」ということを、所与の前提としている。 

でも、私はそういう人間こそ「バカ」と呼ぶべきではないだろうかと思う。 

「バカ」とは情報量や知識の範囲、論理的整合性、主張の「正しさ」云々以前に、自己の客観的現実と自己評価の「ズレ」に自分だけが気づけない知性の状態であると、私は考えるからだ。

記事にはこう書かれている。 

私がいつも皮肉だと思うのは、普段リベラルな論調と言われる朝日と毎日が高校野球になると見事なまでの「守旧派」になってしまうことだ。

確かにこれは「皮肉」かもしれない。

しかし、そういう「矛盾」はどこにでも発生する現象である。

つまりすべからく人間は、それが無意識的に露呈したものか、それとも「分かっていてもそうせざるをえない」のかはわからないが、簡単に「バカ」な振る舞いをするということである。

「分かっていてもそうせざるをえない」場合は、ご自身に「自分はバカなことをしている」という自覚があるので、まあいい。(開き直る場合もあるが、その場合は完全に「バカ」だと明らかになるので、無視しておけばいい)

問題は、その「バカ」が無意識的に露呈する場合である。 

なぜこのようなことが生じるのか。

私はこう考える。

一つは、自分「だけ」が正しいと思っているからである。

自分「だけ」が正しいと思っている場合、人は簡単に「バカ」になる。

「じゃあお前は自分は正しいと思わずに、こんな文章を書いているのか」

いいえ。

もちろんこうやってペンをとっている(というか、キーボードを叩いている)以上、私は私の考えに、ある程度「正しさ」を感じている。 

しかし、私「だけ」が正しいなどとは一切思っていない。 

私がこのように綴っている言葉が「正しい」かどうかを最終的に決定するのは、私や「あなた」ではなく、私や「あなた」が位置しているコミュニケーションの「場」そのものである。

そしてこのコミュニケーションの「場」とは、「いま、ここ」ではなく、時間的にも空間的にも未知に向かって開かれている。

だから、このコミュニケーションの「場」において、「いま、ここ、わたしたち」だけによって「正しさ」の判定がなされるべきだと、私は考えない。

「場」そのものを尊重するとは、そういう意味である。

だから、私は「今の私だけが正しい」などとは、原理としていわないことにしている。

もちろん、私はこのブログを(いまのところ)匿名で書いているので、そのぶん私の論は説得力を失う。 

それは仕方がない。 

私なりのしがらみにとらわれて、私なりのやり方で偏っている私が、今の私なりに考えてそういう選択をしている以上、私はその分論の説得力を失う。 

それは百パーセント私の問題であり、私の原因によるものである。

 

「バカ」が無意識に発露する背景について話していたのだった。

もう一つ考えられる原因は、自分がある言葉を発することで本当は何を欲望しているのか、直視しようとしていないからである。

他人を「論破」して自分を偉く見せようとしたり、最新の情報を紹介し他人から注目されようとしたり……人間がある言葉を発する根底には、そこに至るまでに、かならず何らかの欲望が存在しているはずである。 

そのことを認め、直視し、計算に入れておかなければ、どんなに博学で、論理性に優れ、レトリックが巧みであろうと、「バカ」は簡単に露呈してしまうのではないだろうか。 

だから、朝日や毎日は「私たちは私たちなりのしがらみや利権にとらわれて高校野球を報道しています」といえばいいと思う。

そうすれば、私たちはその「バイアス」を考慮に入れて、記事やニュースを活用できる。 

もっともメディアがそんなこと言うはずがない。 

言ってしまうと、これまでのような「〇〇としてそれでいいのだろうか」とか「××であるべきだ」という語り方を全面的に見直さなければならないからだ。 

それに、数行前に書いたことをすぐ撤回するようでなんだが、そんなことをいう必要ないと私は思う。

さっき言ったように、マスコミがマスコミなりのしがらみや利権にとらわれて報道していることなど、「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」な事実だからだ。 

だから、朝日や毎日の高校野球報道や、それについてこういう記事を書く筆者にも、それぞれそれなりの意図や欲望があるのだと思って読めば、(そしてそれを読む私にもそれなりの意図や欲望があるのだと思って読めば)、あまり問題はないのではないかと思う。 

あくまで邪推だが、もしこの筆者が「いや、報道機関は中立公正だと思っている受け手だっているんだ」という意図でこの記事を執筆しているのなら、私はその労をとやかく言うつもりはないが、その「読者像」の設定に関しては慎重になったほうがいいのではないかと思う。

「そういうお前にこのような文章を書かしめる欲望はなんだ」

そうね、私が自分で意識できる範囲で言えば、たぶん私は「頭がいい」と思われたがっているんだと思う。 

私はルックスやファッション的な方面で「カッコイイ」と言われたいとか、「女の子にモテたい」とか、どんな人からも「いい人」だと思われたいとか、そういう方面の欲求は皆無である。 

本人が認識していないだけで、実は深層的には「俺はカッコよくて、女の子にモテまくって、みんなからいい人だと思われたい」と欲望していて、それが周囲にだけは筒抜けている可能性はあるが、その場合周囲の人間は私の言動の意図を察知して、私を避けることも利用することも可能なわけで、みなさんに害をなす危険性は薄い。 

なにより、実際問題として私は「カッコイイ」わけでもないし、「女の子にモテた」記憶などなく、「いい人だね」と言ってくれる奇特な人に最近あった覚えがないのである。(ぐすん)

ただ、私は「頭がいいね」と褒められたいという欲求は、結構小さい頃から持っていたと思う。 

で、そういう欲望は(「可愛いね」と言われたがる女の子や「センスいいね」と言われたがる部屋の持ち主がそれを隠しきれないように)、おそらくは周囲にはダダ漏れなんだろうと思う。

でも、私がここまで書いてきたことは、繰り返していうが「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことである。 

そんなことを書いたとして、「頭がいい」と思われるだろうか。

私は疑問である。 

いや、もしかしたら「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことを徹底的に書くという態度で「頭がいい」と思われようとしているのではないか。 

はたまた、こうして自己懐疑を繰り広げることで、哲学の伝統である「無知の知」を体現し、「頭がいい」と思われようとしているのではないか。 

こういう自己言及を繰り返すことで、「俺はお前が俺について思っていることを先読みしているぞ」とマウントを取ろうとしているのではないだろうか。

……。 

キリがない。

無限ループである。

自らの欲望を自らチェックすることは大切なことだが、それをやりすぎるとキリがない。 

なによりそれを晒すことは悪趣味である。 

確かに、読み返してみると、悪趣味だ。

犬が自分の尻尾を追いかけてその場でグルグル回っているようかのようである。

すみません。 

でも、ここまで自己言及を書き連ねたおかげで、私がなぜこの文章を書き、しかもこうして公開するに至ったのかについて、「頭がいいと思われたいから」という欲望以外に、もうひとつ理由があるのだと、気づいた。

それはたんに「楽しいから」である。

読んでいる方にはわからないと思うけれども、この「グルグル」はその場で空回りしているようでいて、実は少しずつ前に進んでいるのである。 

犬だって傍から見ればその場でぐるぐる回っているだけだが、なぜ回り続けているかというと、回るたびに「なんだか、楽しくなってきちゃった」からである。(たぶん) 

で、こうして「あ、そっか。結局、楽しいから書いてるんだ」と気づくことができた。

これは「当たり前すぎて誰も言わないだけで、言うだけ全く無意味」なことなのだが、それでも私にとっては新発見である。

しつこくワンちゃんを比喩に用いさせてもらうが、犬がそのへんで見つけたくだらないものを飼い主のところまで持って帰ってきて、「どや、すごいやろ」と見せるように、私もこの喜びを見て欲しいのである。 

つまり、自己満足である。 

よって、この書き物に、批評性とか客観性とか公益性とか「役に立つ何か」など、ない。

私の自己満足です。 

ここまで読んでくれるような奇特な方がもしいたならば、申し訳ない。

でも、「ぐるぐる」は楽しいのである。

なぜ楽しいかというと、「ぐるぐる」していると、そのうちに「ぴょい」っと「どこか」へ飛んでいってしまうからである。 

この「どこか」とは、以前の私にとっては予想だにしなかったような新たな視点だったり、新たな文体だったり、新たな認識だったりする。

つまり、「ぐるぐる」によって量を稼ぐことで、そのうちに私の思考の質が「ぴょい」っと変質する瞬間が訪れるのである。 

自己で自己について言及し「ぐるぐる」するのはそのために欠かせないのである。 

なぜなら、「量の積み重ねが質の変化を生む」というところの「質の変化」が意味するのは、単に「もう、あきた」という精神状態に過ぎないからだ。

そして一人で「ぐるぐる」していると、自分で自分に飽きてしまう。

私の中でふたりの私が会話をする。 

 

「ねえ、まだそれつづけるの」

「仕方がないだろ、これしか知らないんだから」

「もうおいら、飽きちゃったよ。もっと、ほかになんかないの?」

「うっせーよ、そんな言うなら、お前が自分でやれよ」

「……わかった」

 

「ぐるぐる」している私に飽き飽きして文句をつけるもうひとりの私は、文句をつけた手前新しい「なにか」を自前で調達せざるを得なくなる。 

「ぴょい」とは、この「もう飽き飽きだよ」な私が首尾よく新しい「なにか」を調達できた瞬間に生じる知的運動である。

それは結構気持ちがいい。

だから、「ぐるぐる」も結構「楽しい」のである。

私は「ぐるぐる」「ぴょい」を楽しみたいだけであって、繰り返すように、そこで批評とかなんとかを目指しているつもりはない。

「頭がいい」とかなんとかも、なんかもういいや。

「伝えたい」ことがあるわけでもないし。

でも、もし、この「ぐるぐる」「ぴょい」を想像的に追体験してもらうことで、何かが「伝わって」、「おもろい」と思うような人がいたならば、まあよかったなと思う。(そんな人間が入ればの話だが)。 

 

 

麺を食べ終わったので、大学に戻り、16時半までには残りの仕事を一気に殲滅完了。

ふー。

終わった終わった。

これで春節前の「仕事納め」である。

夜はO主任と他大学のH先生と一緒に「忘年会」。

魚料理専門店で、魚を食べワインを飲む。

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案内された座席は目の前に水槽があって、これから店中の人々の胃袋に収まるであろう魚たちが我々一行を見つめてくる。 

なんか、すみません。

でも、すごく美味しそうです。(美味しかったです)

昨日食べたのは“剁椒鱼头”という湖南料理。

湖南料理だから、唐辛子がたっぷり使ってある。

半分に叩き割った魚の頭のうえに赤唐辛子をたっぷりとまぶし、調理されている。

直径50センチはありそうなお皿に乗ってきた魚料理を、汗をだらだら流しながら食べる。 

口のなかが山火事状態なので、冷製のおそばを注文し、鎮火を図る。

しかしこの「あえそば」というか「まぜそば」、かなり激辛のラー油がソースになっていたので、口の中が却って大変なことに。 

しかし、うまい。

魚をバクバク食べ、ワインをグビグビ飲み、先生方と一年の労をねぎらい合う。

ごちそうさまでした。

 

家に帰ってさっさとシャワーを浴びる。

今年は4日が除夜、5日が新年である。 

ベッドに潜り込み、明日からしばらくはゆっくりしようとおもいながら、あっという間に就寝。

日記(進まない仕事とか、態度の悪いおじさんとか、「グローバルについて」とか)

30日(水)

 

月曜から引き続き教材編集のお仕事。

日本のテレビニュースを文字起こししたものと、実際の映像資料を照らし合わせて、間違いや欠落を探す。

昨日は「日本人なら誰でもできる」と書いたこの作業だが、やってみると結構楽しくなってきた。 

中国人向け教材に使うという視点で、日本人の言い回しや日本語の表現を眺めてみると、けっこう変なことに気づかされるからである。 

今日は「天気や気候」に関するニュースをチェックしていて「命に関わる危険な暑さ」という表現が「面白いな」と思った。 

日本では昔から天気予報でこんな表現使っていただろうか。

すくなくとも私が子どもの頃の天気予報では、こんな物騒な表現はなかった気がする。

そういえば、数年前に一年ぶりに日本へ帰り実家に滞在していたときのこと。

「田舎あるある」だと思うが、私のふるさとでは消防団の詰所や市役所支所のスピーカーから、よく町内放送やサイレンが流れる。

たとえば午後五時になると「ふるさと」が流れる。 

久しぶりに地元の夕日を眺めたりしながら「ふるさと」のメロディを耳にすると、けっこうジーンとくる。

サイレンがなる場合は、たいてい正午のお知らせとしてである。

で、数年前の夏休みにひさしぶりに実家でダラダラしていたときのこと。

いきなり「ピンポンパンポン」とお知らせの合図が成り、「こちらは消防局です。本日は30℃を超える真夏日です。熱中症予防のため…」などと親切なお知らせを流し始めた。

こんなこと、昔はなかった。

「おお、親切だね」と思った。

でも、さすがにそれが連日続くと、正直「うるせえよ」と思ってしまった(ごめんなさい)。

「命に関わる危険な暑さ」というのも、エアコン嫌いで熱中症になるお年寄りとか、炎天下で水も飲ませずに走り込みさせるバカ顧問とか、そういう人を意識して出てきたものなのだろうか。

赤ペン片手にそういうことを考えながらスクリプトを眺める。

でも、「命に関わる危険な暑さ」というフレーズを、きっと中国の学生さんたちは一笑に付すだろう。

だって、そのフレーズの後に出てくる予想最高気温が、35℃とか38度とかなのである。 

もちろん何度だろうと危険なものは危険である。

しかし、中国の内陸の方では、40度超なんてザラである。

重慶なんかではただ暑いだけではなく、風が吹かないのだ。

地獄である。

日本では心地よい海風が期待できる。

夏に九州に帰ると風が吹いている日は35度とか37度でも「あー涼しい」と感じてしまう。

海がない都市はそうもいかない。

私自身、重慶で43℃、昨年合肥でも40℃を体験してしまって、暑さに関する感覚がだいぶ麻痺してしまっている。

だから、つい「おおげさな」と思ってしまった。 

 

多分このニュースを中国人に見せたら、重慶とか長沙とか南京とかあたりの学生さんは「ふん(笑)」と鼻で笑うのではないだろうか。 

 

降雪でバタバタしている東京を雪国の人が「ふん(笑)」と鼻で笑うのと同じで、それはある意味人間にとって自然な心理である。 

 

社会福祉のニュースでは、生涯未婚率が高い東京都が若者向けに開催した「結婚について知事と語ろう!」なるイベントに関するニュースが取り扱われていた。

で、そのイベントに「結婚したい若者」代表のパネラーとして安田大サーカスのクロちゃんが出ていた。 

「水曜日のダウンタウン」は中国でも見ている学生は見ているので、そういう学生がこのニュースを授業で見たら「クロちゃんwww」と吹き出してしまうかもしれない。(私は吹き出した)

 

などと、どうでもいいことを考えていて、なかなか楽しい。 

集中できず、作業が進まないのが困る。

 

31日(木)

雪。

朝起きるとそこそこ積もっていた。

 

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夕べ0時前には雨が降っていたから、「夜更け過ぎに雪へと変わった」のだろう。

仕事を進めるため大学へ。

今年の春節は来月5日だから、中国の生活感覚的にはもう「年の瀬」である。

だから大学にはほとんど人がいない。

みんな地元に帰って家族団欒を過ごしたり、どこかへ旅行や遊びに行ったりしている。

年の瀬の寒い雪の日に仕事をしなければならないのは、たしかに大変だよね。

わかるよ。

でもさ、それでお鳥目を頂いている以上、心を込めてやるべきだとは思わないか?

何かというと、外国語学院の建物を管理している警備員(おっさん)の態度があまりにも悪すぎてびっくりしたのである。

今朝いつもどおり一階のロビーに入っていくと、大声で

「おい!」

呼ばれた方向を向くと、左手だけ上着のポケットに突っ込んだおっさんが、受付デスクのうえに乱雑に投げ出されている書類を指差し、一言。

「登録しろ」

びっくりして思わず「は? なに?」と聞き返してしまった。

言われている意味を聞き返したのではない。

あまりの態度の悪さに「え、まさかとは思いますけれども、私に登録をしてくださいっておっしゃっているんですか? 別に私はあなたのお仕事に協力するにやぶさかではないのですが、でも、それって人に何かをお願いする態度ですか?」という思いを「は? なに?」に凝縮してお届けしたのである。

 

「は?」(おっさん、だれ?)

「なに?」(そのクソみたいな態度)

 

おっと、口が悪くてすまない。

おもわず中国語で「おい、その態度はなんだ」と言いかけたが、中国語で中国人と口喧嘩しても全く勝てる気はしないし、そもそもこのおじさんはかなり訛っていて、何言っているかあんまり聞き取れない。 

喧嘩したとしても“鸡同鸭讲”(鶏とアヒルが同時にしゃべる、つまり会話が全くかみ合わないことの意)である。

だいいち、誰もいない大学の冷たいロビーで、こんなおっさんと口喧嘩しても虚しいだけだ。

正直ひさしぶりにイラっとしたが、仕方がない。 

「はいはい」とサインする。 

誤解なきよういっておくが、これは「中国人はどうこう」とか「日本との違い云々」ではなく、完全にこのおじさん個人の問題である。 

だって、さきに事務室に来てたO主任も私の顔を見るなり「一階の警備員、あれ態度ひどくなかったですか?」と言ってきたし。 

そういう態度だから、そういう仕事しかできないんだよ。

あ、ここでいう仕事とはパフォーマンスのことであり、職種のことではないからね。

おもわず愚痴を言いたくなる。

とはいえ、私はここでは日本人として認知されている存在であり、私の言動はそのまま「日本人」という文脈でとられてしまう。

よく意見を言った時に「いやあ、日本人らしい観点ですね」と(褒意で)おっしゃる方がいる。

もちろん私の物の見方が多分に日本的なものに影響されていて、それで私が日本人らしい事を言っている可能性もある。 

しかし「え、俺のこんな意見を日本人らしいものとして受け取られて、いいんだろうか」と不安にもなる。

外国で外国人としての役割を本然的に期待されている仕事をしていると、ちょっと気疲れする。

たとえば、私だって嫌なことがあった時に「さっきめっちゃ態度悪いおっさんいたんだけど……。あー最低、チョームカつく、ぷんぷん!」と愚痴をこぼしたくなる時がある。 

しかし、これを学生さんや同僚の皆さんにこぼしてしまうと、それを「日本人」と「中国人」の図式で受け取ってしまわれる可能性が高い。 

いや、たんに「私」と「おっさん」との間にあったことに過ぎないんだけどね。

でも、意図せずして不快な思いをさせるような事態は、できれば避けたい。

だから愚痴は言うまい、こぼすまい。

 

気を取り直して机に向かう。

今日は教育関連の映像からチェックする。

資料のニュース映像では、英語のみが使用されている東京のインターナショナルスクールが紹介されていた。

そこに子どもを通わせている「教育ママ」たちが、「これからは英語が出来て当たり前の時代が来る」とか、「中学から海外行けばいいという今までの世界では遅い」とか、「自信を持って生きていく力、グローバルな視点、人間力みたいなものが培われるといいなと思う」などとコメントしていた。 

こういうのを見るたびに、「へっ」(by オードリー春日)と思う。

別に特定の誰かやなにかを批判する気は毛頭ないのだが、私は「グローバル」という単語が好んで使われる様子を見るたびに、なにか「それらしい」ことを言ったり「それっぽい」ことに取り組んでいるとアピールしたいだけではないだろうかと邪推してしまう。 

私が知っているある高校では、ある年から「グローバルコース」なる課程を設けて生徒募集を開始した。 

しかしそこで語られている開設理念や実体を見ても一体どこが「グローバル」なのか、私にはさっぱりわからなかった。(「旧帝大以上の難関大学合格を目指す」とか「文理の選択をじっくりできる」とか、そういうことだけはたくさん語られていたが) 

だからかどうかは知らないが、私の知る限り、そのコースは志願倍率がかなり低かった。 

受験生がそれぞれの中学校で取りまとめて願書を書かされているときに「〇〇高を受ける人は、行く気がなくても『グローバルコース』を志望コースにに書いておけ」と教師から「指導」されたと聞いている。 

高校側から中学の進路指導の先生に「お願い」があったんだろうと察する。

結局このコースは10年も持たず廃止された。(理由は知らない)

それ以来、「グローバル」と冠するものごとを見たり、「グローバル」を愛用する人と話したりして、「わあ、すごいな。頭いいな」と思った記憶が、私にはない。

たぶん私が偏屈なのであろう。

以前、日本のとある田舎に位置する大学が国外からのゲストを招いて開いた「グローバル交流のための本学のストラテジーや取り組み」みたいな場に居合わせたことがある。

そこでは主催校の担当者が、東京の有名私大がやっている「グローバル」なカリキュラムをさんざん紹介した上で、自分たちの大学もそれに倣うと自信満々な様子で語っていた。(なぜかパワポは英語で表記されているにも関わらず、日本語で語っていた)

私は「おいおい」と思った。

東京の有名私大とあなたたちの大学の置かれている状況は全然違うだろう。

それは良いとか悪いとかではなく、客観的な事実である。

それぞれの学校にはそれぞれの土地柄や文化や歴史などがあるはずだ。

そういう要素を踏まえて練り上げるのが「ストラテジー」ではないのか。

だから、日本に700以上の大学がある以上、「ストラテジー」もその数だけあるはずである。

自分たちの学校が根付いている場や学生が置かれている状況を無視して、東京がやっていることに倣って「やれダブルディグリーだ」とか「それ英語で授業だ」とか言っても、まったく説得性がない。

それは情報量や論理的整合性の問題ではない。

そんな高度な問題以前の、初歩の初歩の問題である。

それに、話を聞く限り、それって「グローバル化」というより「チェーン化」というべきじゃない?

そうやって地方で学生募集しても、結局は「二番煎じ」しか教えられないんじゃない?

それなら若い人は多少無理してでも「本家本元」を求めて地方を離れるだろう。

私は田舎の高校生だったからわかるが、田舎の高校生に足りないのは「学力」ではない。

「自信」である。

自分たちが食べて、寝て、遊んで、学んでいるその土地が(ひいてはそこにいる自分が)「客観的には価値がないのではないだろうか」と不安を覚えているのである。

そこにもって「私たちの大学では東京の一流大学でやっていることと同じことをやってますよ」とアピールしたらどうだろう。

それは「東京の大学はすごいよ」ってことではないだろうか。

「あなたたちの町の大学は自分たちでは何も考えられないよ」ってことではないだろうか。

それが「グローバル」の目指すものなのだろうか。

せっかく大学の先生なのだから、自分の頭や足を使って、自分たちにしかできない国際交流を創造したり、自分たちのいる場所でしかありえない国際性を発見することに力を使ったらどうだろうか(頭いいんだろうし)。

結局何がしたいのか、私にはわからなかった。

たぶん私が偏屈で視野が狭いからだろう。

 

私自身は「グローバルかどうか」という視点でモノを考えたり、判断したりしないことにしている。

なぜなら「グローバル」とは何かについて、私はわからないからだ。

わからないから、「グローバル」に関する問いだけはたくさんある。

だいたい「グローバル」ってなに?

「グローバル人材」ってどういう人材?

英語ができれば「グローバル」なの?

外国人と交流しなければ「グローバル」じゃないの?

たとえば、私は海外で仕事をしてもう6年だけれども、私は「グローバル」に活動する「グローバル」人材なの?

たとえば、日本の田舎町で農業をしていて、外国語は全く喋れず、外国人と接することなんて皆無だけれども、作る野菜が外国に輸出され現地でとても喜ばれている、そんな人がいるとしたとしたら(実際にいるだろうが)、その人は「グローバル人材」とは呼べないの?

そういう産業がある田舎町は立派に「グローバル」な文化を持つとは言えないの?

よくわからない。

私は偏屈だが、自分でもよくわからない言葉を使うときには、それなりの努力をするように心がけている。

だから、私なりの限られた知識や経験や頭脳の範囲で、なんとか考えてきた。

そのうえで思うことだが、ほんとうにグローバルに活躍している人とは「グローバル」なんて真新しい(でもないな、今や)言葉をわざわざ使わずとも形容できるぐらい、当たり前のことを当たり前にできる人間なのだろうと思う。

そういう人は、多分どこでどんな人とどんな仕事をしても、けっこう上手く出来て、そこそこ幸せに過ごすことができるのではないだろうか。

それは語学力とは関係がない。

マインドの問題だからだ。 

「当たり前のことを当たり前にできる」素質がなければ、語学が堪能で世界を飛び回っていても、結局はただの自己満足で終わってしまう。

私はそう考える。

別に子どもに早くから「英語」や「異文化」を学ばせてもいいと思う。(子ども自身が心の底から楽しんでいるようならね)

語学はとても有意義である。

自分の知らない言語や文化に接することで、他人への共感性とか、自分自身の唯一無二性をより学ぶことが出来るからだ。 

だからこそ、「英語」や「異文化」を学ぶことになにか人格陶冶としての意義があるとすれば、それは他者への敬意を身に付け、自らだけが担当可能な責務を発見するためになされる限りにおいてである。

「自信」とはそのような自らしか担えそうにない「責務」の発見と「個性」の自覚によって裏打ちされるものであるべきだと、私は考える。

そして、逆説的な言い方であるが、「自らにしか担えそうにない『責務』」を発見し「個性」自覚するためには、まずは自らを自縄自縛している「自らにしか担えそうにない」とか「個性」とかいう枠組みから、抜け出さなければならないのである。

語学や異文化交流は、自らの根本そのものを揺るがすようなものである限り、真に教育的である。

そのようにして得られる「自信」は、別に語学や異文化交流を経ずとも、自分の心がけ次第で十分獲得可能なものだと私は思う。

そのような視点を持たなければ、いくら複数の言語を自在に操ることができ、多種多様な外国体験を持っていたとしても、自分がすでに保持している基準を他人と共有し、その「上下」で自分を位置づけることでしか「自信」を得られないだろう。

たとえば「俺はこいつらより『グローバル』だ」とかね。

私はそう言う「自信」を「自信」だとはみなさない。

「自信」とは「自分を信じる」ことである。

「俺は他人と比べて…」は「自分を信じている」のではない。

他人と共有している「基準」を信じているのである。

そして他人と共有している「基準」で「自分」を差別化する人間を、私は「個性」的な人間だとは思わない。 

それはただの俗物である。

また、そういう俗な人間を「人間力がある」人間だとも、私は思わない。

あくまで私の一方的な主観に過ぎないけれども、このニュースを見る限り、「教育ママ」たちは、自分の子供に周りの「普通の子ども」より優れた力を早く獲得することを望んでいるようにみえる。

もしそれが、我が子に少しでも有利な条件を獲得し、無事に生存することを望む、そんな親心からなされているならば、私はなにも文句はない。 

よく理解できるからだ。(母親になったことがないので、あくまで想像だけれども)

しかし、そうやって親から国内の「普通の子ども」たちと差別化を図るよう教え諭されてきた子どもが、他人を他人そのものとして、異文化を異文化そのものとして尊重するような態度や人間力などを、果たして身につけることができるだろうか。 

この点に関しては、私は「うーん、無理じゃないかな」と思うし、もし本当に「人間性」や「自信」を我が子に望むのならば、それは却ってどうかと思う。(大きなお世話だろうが)

だって、もし私がそういう子どもだったら、小学校の英語の授業でほかの子供や教師の発音をうすら笑いを浮かべながら訂正したり、「あのね、海外ではそれは通用しないんだよ」などと「クリティカル」に指摘する嫌な子供になるだろうからだ。

これに関しては自信がある。

「いや、それはお前の場合だろう」

そうです。

私は偏屈で意地が悪いのです。

すみません。

でも、それ以外にも思い当たる事例がある。

実際にこの目で見たり、この耳で聞いたりしたのだが、「グローバルに活躍したい」などといいながら「英語が使える場所じゃなきゃやだ」とか「この国や地域には死んでも行きたくない」などとのたまう人間はいる。

彼らが望んでいるのはグローバルに活躍することではなく、自らの抱く「グローバル」なる想いを満たすことである。

異文化と接することではなく、自分の抱く「異文化」を楽しむことである。

でも、それって、結局「井の中の蛙」に過ぎないのではないだろうか。

自分に切り取られた「世界」や「異文化」は、果たしてほんとうにグローバルな世界であり、異文化なのだろうか。

わからない。

なんか違う気がする。

それに、語学の現場で働く人間から言わせてもらうと、外国語が出来れば即ち視野や世界感が広がるなどということはない。 

いくら外国語が堪能でも、自分そのものを批判的に眺め、分析し、位置づけながら、自分をすべての未知なる存在との間で作用することができるようなものとして磨き上げていこうという自覚がなければ、その人間は視野狭窄で夜郎自大な人間である。 

そしてこのような自覚は語学の堪能さとは本質的にまったく関係がないものである。

これは語学教師をある程度やって再確認した、私なりの認識である。 

バイリンガルだろうとトライリンガルだろうと、話していることが「バカ」なら即ち「バカ」である。(「バカ」の拡散経路が「グローバル」な分よりタチが悪いが)

「バカ」に関して、これまで私が目にした中でもっともクリアカットで美しい定義は、内田樹によるものである。

以下に引用する。

 

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている(内田樹『ためらいの倫理学』、角川文庫、42頁)

この部分は、大学院1年生の頃、長崎行の「白いかもめ」のなかで初めて目にしたとき、衝撃を受けた。

わかる方にはわかると思うが、私はこの著者にかなり大きな影響を受けている。

正確に言えば、語り方の部分でだいぶ影響を受けている。

私は幼少の頃はとても素直でまっすぐに育ったのだが(たぶん…)、ある年齢を過ぎた頃からけっこうひねくれた物の見方とか、斜に構える態度を(望んでもいないのに)身につけた。 

ただ、そのことで問題提起をすることは十分にできたのだが、その問題への解答を自分の言葉で紡ぎ出す訓練や素質にかけていた。(今でもそうであるが)

さっき引用した本での著者のパフォーマンスは、私がやりたいことをはるかにスタイリッシュかつ高度になしているものだった(あるいは後付けでそう思い込んだのかもしれない)。

なんでわざわざそういうことを書くかというと、もし私が「私は完全なるオリジナルな存在として、この文章を書いている」などと思っているとしたら、まさに私は「バカ」だからである。

私は「バカ」が嫌いである。

だから私は私の「バカ」を誰よりも近くでみてきたものとして、私を嫌う。

しかしそれではあんまりだし、なにより「バカ」から脱したい。

それに私が「バカ」なら、私が話している日本語や中国語が、私の「バカ」をグローバルに拡散してしまう。 

それを防ぐためには、二つしかない。

一切口を開かずペンも取らないか、それか「賢く」なるか。

前者は採用したくない(こう見えておしゃべりずきなので)。

なので、「賢く」なるしかない。 

ということで、「バカ」を晒すのを承知で、こういう文章を書いているのである。

 

って、こんな文章書いているうちに気づいたらもう夕方じゃないか。

帰って運動して晩御飯を食べワインを飲みながら仲間由紀恵を見なければ。

はあ、仕事がすすまない(やっぱりバカじゃん)。

気ままに勉強日記。

29日(火)

寒い。

事務室の窓から外を望むと、霧とスモッグで一面白く霞んで見える。

ご案内のとおり、私は冬休みに入っている。 

しかし毎朝ちゃんと起きて、手弁当で大学へ通っている。

机に向かい仕事や研究に没頭し、日が暮れる頃に切り上げ帰宅。 

晩ご飯の仕込みをしたあと、小一時間ほど運動をしてシャワーを浴びる。 

そして少しだけお酒を飲みながら映画や小説を楽しみ、11時には寝る。

という、なんとも規則正しい生活を送っている。

仕事があるときよりも休暇中の方が規則正しい生活スタイルになるというのが、他人からの「~ねば」とか「~せよ」という当為や命令ではまったく動き出さないという私の性格をよく表している。

とはいっても、ありがたいことにうちの大学の上司はぜんぜん当為や命令で私に語りかけることがない。

授業が始まると、むしろ私が私自身に「あ、こうしなければ」と当為の形で語りかけ、「ほら、さっさとやれよ、おう」と命令してしまう。

授業は受け手の学生さんがいるので、どうしてもさまざまな自主制約や自己規範を設けざるを得ないのだ。

その制約や規範をかいくぐってわずかばかりの自由や時間を得ようとすれば、結果的に睡眠時間や家事の時間を削ることになる。

なので規則正しい生活というものが遠のいてしまうのである。

「え、あれでも制約や規範を課しているんですか」と思う学生さんが多数だと思うが、そうなの。

しかし今は休暇中。

授業も雑事もない。 

さらに私は養うべき存在を持たない。

なので休暇中は「何をしても自由だけど、責任は自分で負ってね」という気楽な態度で好きなことに熱中でき、私は生き生きと仕事をしたり、勉強できたりするのである。

結果的に机に向かう時間、厨房に立つ時間、体を動かす時間が増える。 

すると食事が健康的になり、運動量と睡眠時間が増加し、酒量が減る。

なんて健康的な生活なんだろう。

いまのところ2キロ痩せた。

先学期は5キロ太ったので、ぜひとも3月までにはあと3キロは絞りたいところである。

 

今回の冬休みは、午前中を自分で考えたり書き物をする作業に、午後を語学の作業に当てている。

目的性や時間にとらわれることなく、あてもなく勉強するのが楽しい。

特に語学の方は、中国語を英語の例文とともにメモしながら覚えているので、あたまが頻繁に日-中-英と切り替わり、興味関心がいろいろな方面に飛びまくっている。

数種類の辞書を横断し、たくさんのウィンドウを開きながら、さまざまな情報や知識を頭の中に無節操に叩き込んでいく。

ときどき自分でも「あれ、結局何を調べたかったんだっけ」と本来の目的を忘れてしまったりする。

しかし、そもそも目的性にとらわれずに勉強するのが長期休暇中の勉強目的なので、それでいいのである。

今日はまず4日前から続けている「日本語教科書のなかの疑問表現をすべて収集する」作業に取り掛かった。

すると、急に中国語の否定疑問文「…不也是~吗」(…だって~じゃないの?)が気になり始めた。 

私自身あんまり使ったことがないからである。

これは疑問文の形をとっているが修辞的なものなので、言いたいことは「…だって~だろ!」ということである。

要は反語である。

なぜだかわからないのだが、学生時代に初めて漢文の授業で反語表現を習ったとき、「かっこいい…」と思った。

「どうして~だろうか、いや、~ではない」とか「~なことがあろうか、いや、ない」とかいう表現である。

こういう表現は日常生活の中では必要とされないだろうし、出会うこともない。(日常的に反語を使って語る人間になんか近寄りたくない)

こういう「日常ではいらないしなくても困らない語彙」というものを学ぶためには、やはり書を読んだり賢人に接するしかない。

ふと思う。

もし漢語的な疑問表現を日本語に取り入れてきた歴史がなければ、思考のツールとしての日本語はずいぶん貧相なものになっていたのではないか。

と考えながら中国語の勉強に移る。 

今日は中国語の“事实”(shi4shi2)と“实事”(shi2shi4)の違いが気になり始める。

手元の辞典を引くとどちらも「本当のこと、事実」とある。

これだけだとよくわからないので、中国語の例文を読んだり同僚のO先生(余談だがうちの日本語学部にはO先生がたくさんいる)に聞いたりする。 

結果的に言えば、“事实”が「事実」でありfactやtruthであるのに対し、“实事”とは具体性を持ったことや実際的なこと、つまりpractical thingsである。

なぜこのようなことが気になったたというと、中国語ではよく“实事求是”(事実に基づいて真実を求める)という表現を目にするからだ。

今日勉強する中で、この表現を私は“实事求是”ではなく“事实求是”と覚えてしまっていたことが発覚した。

そこで気になった。

なぜ“实事求是”ではなく“事实求是”なのか。

私は街中やテレビのテロップなんかで“实事求是”というスローガンを見かけるたびに、文脈から「本当のことを追求する」という意味だろうと推察し、この表現を覚えていた。

今回わかったのは、これは単に現象的な「本当のこと」を求めるということでもなく、はたまた抽象的で思弁的な「本当のこと」を求めるということでもなく、「地に足つけて」真実を求める、という意味合いを持った表現だったということだ。

それをうけて今度は「なぜ日本語は『事実』はよく使うのに『実事』という漢語をあまり使わないのか」とか疑問を持つ。 

そのことを調べているうちに、全く関係ないことではあるが「目配せ」の「配せ」が当て字であり「くばせ」の語源が「食わせる」だということを知った。

 

「目くばり」? 「目くばせ」?|NHK放送文化研究所

 

 

さらには今日初めて知ったが、中国語で「写真を現像する」の“現像”は“冲洗”chong1xi3という。

漢字を見ればわかるとおり、この単語のもっとも一般的な意味は「洗い流す」である。

で、「そういえば洗い流すって、英語でなんって言うんだっけ」と気になり、自らの英語力がとことん落ちたことに気まずさを感じながら中国語から英語スライドしていく。

するとrinseという単語が出てくる。

「口をゆすぐ」とか「すすぎ落とす」とかいう意味が辞書には載っている。

そこで初めて「あ、日本語のリンスってここから来てたのか」と知る。

辞書によるとリンスは英語でもRinse、ちなみにシャンプーのshampooはヒンズー語からきているとのこと。

ではリンスは中国語でなんというのかというと、辞書には润丝run4si1とある。

おそらくrinseの音訳だろう。

しかし私の知る限り、意訳である护发素hu4fa4su4のほうが一般的な気がする。

たまたま事務室にいらっしゃった女性のO先生(さっきのO先生とは別人)に確認しても、润丝は聞いたことないとのこと。

日本語と同じく中国語でも(というかどんな言語でもそうだろうが)外国語を外来語として自国語化していく際に、それを音訳するか、それとも意訳するかが問題になる。

近代にさまざまな欧米語が飛び込んできたとき、中国語は当初音訳を多用したと言われている。

NHKの番組でも紹介されていたことがあるから、ご存知の方も多いだろうが、たとえばtelephoneを日本語が「電話」と意訳したのに対し、中国語では‘德律风’de2lv4feng1と音訳した。

しかし、日本語の平仮名・カタカナのような表音文字がないため(アルファベットを借用する以外に)外来語を漢字で表記するしかない中国語では、音訳の漢字表記はどうしても文字の表意的影響が避けられない。

なにより中国語は漢字二文字とか漢字四文字の方が「らしい」(とO先生はおっしゃっていた)。

ということもあり、結果的には「电话」dian4hua4が中国語でtelephoneの訳語としての地位を獲得した。

しかし、表意文字で音訳するという点をうまく利用すれば、感心するような音訳が可能になる。

たとえば、有名どころで言えば「コカ・コーラ」は「口に合う、楽しい」という意味の“可口ke3kou3可乐ke3le4”とかね。

個人的には「ミニ」の音訳“迷你mi2ni3”がお気に入り。

これだけだとなんの感慨もないけれど、「ミニスカート」という外来語になると“迷你裙qun2”になる。

「あなたを迷わすスカート」、まさに名は体を表すではないか。

逆にストレートに意訳してしまうと「は?」と思ってしまう結果になることもある。

私が中国に来て一年目、大学キャンパスの中で目にして印象的だったのは“热狗re4gou3”である。

漢字なので「熱い犬」という意味はわかる。

しかし「熱い犬」とはなんだ(あついぬ?)。

しばらく考えてやっとわかった。

ホットドッグである。HOT‐DOG。

しかしいくらなんでも、その訳はないんじゃないのと思った(今でも思う)。

外来語は面白い。

 

特に中国語の外来語と日本語との関係には、いろいろと複雑なものがある。

たとえばロマンという言葉を日本語では「浪漫」と漢字表記したりする。

これはromanやromanceが日本に入ったあとに作られた当て字だと日本では言われている(夏目漱石が当てたとも)。

ロマン・ロマンス - 語源由来辞典

しかし、中国語でもロマンは浪漫lang4man4と表記する。

そして中国では「浪漫」は中国語だとされている。

たとえば「百度百科」(Wikipediaのようなもの)には、「浪漫」の出自を北宋の詩人蘇軾が残した「与孟震同游常州僧舍」という詩の一節「年来转觉此生浮,又作三吴浪漫游」だとしている。

もっとも、

“浪漫”二字,并不是一个词语,而是两个并列字,诗中此二字的意义与现在浪漫一词的意思不同。(この「浪漫」の2字はひとつの語句ではなくて二つの文字を並べたものであって、この詩の「浪漫」という2字が意味するものと現在の「浪漫」という語句の意味は同じじゃないよ)

と断っていはいるが。

baike.baidu.com

 

あらかじめ断っておくが、私は「どっちかが先か」とかそんなことを論じているつもりはないし、そんなことには微塵の興味もない。

そういうことを論件としてかまびすしい論争を展開する方もいるが、それは私の出る幕ではない。
単に私はこのような「一見なんの役にも立ちそうもないし、事実なんの役にも立たずにおわるであろう」疑問や調べものを深く愛するだけだ。

というのは、私が知りたいのはある具体的な知識ではなく、ある具体的な知識を知りたがっている私自身についてだからである。

ほかの表現をするならば、私が思考し実践することになにか意義を求めるとしたら、それは「新しい何かを創る」ためだけではなく、自分の人生において思考の「第一撃となったなにか」を遡及的に知るためである。 

私は自分の思考を形作るきっかけとなったであろう最初の疑問、最初の思考、つまり宇宙にとってのビッグバン的な「第一撃」を、自ら知ることはできない。

それは記憶の奥底に深く沈んでいるからである。 

しかし私たちは何かを感受し、思考し、ある「答え」を獲得したその瞬間に初めて、みずからが何を問うていたのかを事後的に知ることになる。

 だとすれば、私が絶えず思考し続けることの第一目的はなにかを具体的に成し遂げることではなく(それが重要ではないということではない)、自分の起源を遡及的に知るためである。 

もちろんここでいう「起源」とは実体的なものではないし歴史学的な「真実」でもない。

むしろ物語に近いものである。 

でも、それでもいいんではないかと思っている。 

根拠などないけれど。

……別に無意味な調べ物をしている自分をエクスキューズしているわけではない。

「日本人なら誰でもできる」について

28日(月)

朝から大学に来て教科書編集のお仕事。

日本語音声を聞き、文字起こしされたスクリプトと照らし合わせながら、日本語の問題をチェックするという「日本人なら誰でもできる」お仕事である。 

とはいえ、こういう仕事をいけぞんざいにやるか、それとも念入りにやるか、そこでその人間の真価が問われるのだ。

それにこういうお仕事をさせてもらえることで、私自身新たな気づきが得られるし、経験を積むことにもなるのである。

なので心を引き締めながらサクサクと進める。

すると数週間前に自分が文字起こしたスクリプトの中に欠落や誤りを発見する。

ほかにも読点の打ち方がしっくりこない部分も発見。

さっそく赤ペンでゴリゴリ訂正。 

もちろんその当時の私はその時の私なりに丁寧さを心がけてやったはずだが、それでもミスは生じるのである。

やはりどんな仕事でも丁寧にやらねばならんね。

反省。

 

とりあえずスクリプトのチェックは12時前までに全て済ませ、食事に出る。

今日は小雨で冷え込みが厳しい。

中国に来て以来、寒い日には羊を食べたくなる。

ということで「羊肉汤」のお店に行き、「羊杂面」(羊でとったスープに羊の臓物が入った麺)をオーダー。 

一杯10元なり。 

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ちょっと白濁したスープに合わせるのは、コシがある縮れ麺。

ネギやパクチーなどの香味野菜がふんだんに入っているので、羊の臭いは全く気にならない。

胃袋やレバーなどの臓物が美味である。

私は「バカ舌」なので、食に関しては「好き嫌い」というものがまったくない。 

こういう内臓系の食材は敬遠される方も多いが、私は特に大好きである。

だから「あひるの腸」や「牛の胃袋」、「魚の浮き袋」などなど、日本ではなかなかお目にかからない珍味に欠くことない中国の食との相性が非常にいい。

こういう類いの食材が好きなことを中国語では“重口味”という。

“口味”は「味」とか「味の好み」という意味である。

ここでの“重”とは「重い」というより「濃い」という意味だから、ようは“重口味”とは辛すぎる料理とか脂っこすぎる料理を好むことを指す。

日本語に訳すならば「こってり好き」とかいうところだろうか。 

すくなくとも私が最初にこの言葉を勉強した時に覚えた意味はそうだった。
ところが中国の人たちと食卓を囲むなかで、どうやらこの言葉は日本語で言う「ゲテモノ好き」に近い意味でも使われるらしいことが分かった。

そして「牛の胃袋」とか「アヒルの腸」とか、そういう私が好きな珍味は、“重口味”に分類されるらしいことを知った。

へえ、そうなんだ。

火鍋を食べるなら絶対欠かせないのに。

確かに「ゲテモノ」といえば「ゲテモノ」かもしれない。

「ゲテモノ好き」という意味から派生したのか、はたまた「ゲテモノ好き」という意味の由来になったのかは定かではないが、ある人間の映画や異性などの趣味嗜好に対して「げぇ、あんなのが好きなの?」という見下しや侮蔑のこもった気持ちを表現するときにも“重口味”は使われる。

私は「バカ舌」なので、一般的に「ゲテモノ」とは具体的に何を指すのか、よくわからない。 

さすがにネズミとかミミズは食べたことない(食べる機会がまだない)。 

ザリガニやカエルはふつうに美味しいと思う。

院生時代のゼミ旅行で沖縄旅行をした時は、離島名産という「ヤギの刺身」を美味しく頂いた。 

スッポンなんかは甲羅のゼラチン質が最高である。 

確かに「ゲテモノ」好きなのかもしれない。

まあ、嫌いなものが多いより好きなものが多い方が幸せそうだし、いいじゃないか。

満腹したので腹ごなしにぐるっと回り道をして大学に戻り、仕事の続きに取り掛かる。

 

そういえば「日本人なら誰でもできる」で思い出した。

以前祖母が入院していた病院にお見舞いに行った時のこと。 

そこの看護師さんから「中国の大学で先生をなさっているんですってね」と尋ねられた。(たぶん祖母が私について話したのだろう) 

続けて「何を教えてるんですか」とお尋ねだったので、私は「日本語です」と答えた。

すると彼女は「なぁんだ、それなら私でも教えられる」と破顔一笑されたのである。

そうだね。

当事者としてあまり大きな声では言えないし、あまりにも本当のこと過ぎて誰も言明することはないが、中国の大学で日本人教師を務めるのが「日本人なら誰でもできる」というのは、ある意味では正解である。

もちろん実際には正解ではない。 

当然資格の問題がある。 

現在中国の大学で日本語教師をするためには、大卒以上でなければそもそもビザが出ない。

また、最近ビザの発給条件が年齢面や経験面で厳しくなってきている。 

たしか二年前に制度が変更され、60歳以上だったり、二年以上の経験がなかったりすれば、ビザが降りなくなったかのように記憶している。 

なので、以前のように「定年退職したし、年金が出るまで中国で日本語でも教えながら悠々と過ごすか」ということはできなくなった(はず)。

大学側から日本人教師への要求も高くなってきていて、最低でも修士号を持たないと採らないとか、有名私大卒や国立大卒でなければ採らないとか、そういうところもある。 

だから「日本人なら誰でもできる」というのは、事実としては間違っている。 

ではなぜ私が先ほど「ある意味では正解である」と述べたかというと、実際に「日本人なら誰でもできる」程度の仕事をしている人間も多いからである。 

教室では学校から与えられた教材を読み上げるだけ。 

授業外でも日本語しか話さず(話せず)、中国人の同僚とはほとんど交流しない。 

現地の言葉や文化を積極的に学ぶどころか、むしろ避け、日本人駐在員が入り浸る日本料理屋で日本のビールや料理を口にし、日本人と交流するのみで、中国語を覚えようとしない。 

そういう日本人教師は、(たくさんではないが)そこそこいる。

それでも大学では学生から「先生」と呼ばれる立場にある。 

日本人教師が任される科目は「会話」とか「作文」が主なので、特に中国語を話さなくても授業はできる。 

なにしろ日本語はお上手なので、学生や同僚の日本語にケチをつけることができる。

そういう「先生」がいる。

私がこの前目にしたのは、十年も中国に滞在しておきながら中国語がまったく話せないという方。 

このお方はご自身のQQ(中国のSNS、つまり学生さんたちが目にする場)で、「中国はここがダメだ」とか「こんなものを良く食べますね」みたいなことを(たぶん無自覚に)発信されていた。

あるとき、この「先生」がQQに「今日は新入生と交流しました。彼らは日本語がぜんぜんできないので、交流に支障をきたしました」という旨の文章を発表した。 

おいおい、十年もその国に滞在しておいてその言い草はないだろう。

だいいち、新入生なんだから日本語ができないのは当たり前だろ。

10年のアドバンテージがあるお前さんが歩み寄らんかい。

古諺いわく「郷に入っては郷に倣え」(入乡随俗)。

こういう人間が「言葉を学ぶこと」や「コミュニケーションとはなにか」について、学生さんに深い知見を与えたり、激励の言葉をかけることができるだろうか。

私は無理だと思う。 

私が中国人学生だったら「お前が言うな」と思うからである。

私は生意気で態度が悪い人間なので「日本人教師の役割には日本語を話すことだけではなく学生と交流することも含まれるはずです。新入生の日本語がまだまだなのは当然なので、10年も中国に滞在されている先生が中国語で話してあげることも、教師として重要な仕事ではないでしょうか」とコメントした。

すると彼は私のそのコメントを秒速で消したのである。

ふーん。

確かに私も無礼だけどさ、すくなくとも自覚はあるんだよね。

だから現地の人が読むことができるような場で「あんたたちのここがダメ」とか「こんなもの食うの?」とか書かないぐらいのことは心がけてる。(というか、幸せなことに滅多にそう言う思いを抱かない、ほんとに)

そもそも、抱いたとしても、それをわざわざ言葉にして発表なんかしない。

私は暇はあったとしても、そこまで退屈はしていない。 

「相手の立場になってものを考えましょう」という「小学校のおはなし」には多くの問題点があるにしても、それでも「もし私が逆の立場だったら」と想像してみることは、大切な知性の働きだと思う。

もし私の地元に外国人が来て「はぁ、お前らの住んでるところは一時間にバス一本しかないの? 原始時代かよ」とか「生のナマコをぶつ切りにして食うとか、うわー引くわ」なんて言ったら、私だったら「しばき倒したろか」と思うだろう。

まあ、いい。

私はそういう「先生」の仕事を以て「日本人なら誰でもできる」というのは「ある意味正解」だと申し上げているのである。

もちろん私自身が気づかないうちに、そういう「先生」になっている可能性はある。 

多いにある。

「もし私が私の学生だったら……」なんて想像してみると、結構心当たりもある。

というか心当たりだらけである。

なので、これは自分に向けて射られた矢である。

私の仕事が「日本人なら誰でもできる」かどうかは、私自身が判断することではない。

それは、仕事をする私と仕事を受け取る受け手の方々を包んでいる「コミュニケーションの場」そのものが判断することだ。 

なので、私は私にできる仕事をやるだけである。

 

加えて、ほとんどの日本人教師の方々はそれぞれのやり方で立派にお仕事をなさっているということだけは大書しておく。

管見の及ぶ限り、日本語教育には二つの方向性がある。 

「日本語『を』教える」というベクトルと、「日本語『で』教える」というベクトルである。

「日本語『を』教える」ベクトルの先生には、大学で日本語や日本語教育を専攻されていた方や、日本語教師養成講座を受講された方が多い。

だからこのベクトルを極めようとすれば、日本語学の知見を深く学んだり、日本語教授法の技術を磨き上げる方向で、自分の教育を個性化させることになる。 

「日本語『で』教える」ベクトルの先生には、大学ではまったく違う分野を学んでいたり、この仕事を始めることで初めて日本語教育に関った方が多い(私はこっちである)。

こっちのベクトルに沿えば、日本語を使って考えさせたり行動させたりすることで、それぞれの学生の問題意識や興味関心を形にしていく方向で教育を展開していくことになる。

当然日本語やその周辺領域について教育をするので、この二つのベクトルがなにか決定的に違う結果を生むのかと言われると、そうではないかもしれない。

この二つが混じり合って教育がなされている場合がほとんどだろう。 

そもそもこの定義だって、私の勝手な定義だし。

しかし、この勝手な定義を基に論じさせて頂けるならば、大学で日本人教師を勤める以上、「日本語『で』教える」という心持ちは大切なことだと思う。

その理路を以下に述べる。

 

日本の日本語学校や中国の培训学校(塾、資格のためのスクール)では当然「日本語『を』教える」だけでいい。 

というか、それしかもとめられないし、それ以外のことをしてはいけない。 

内田樹の比喩を借りて言うならば、そういう学校の役割は自動車学校と同じである。

最短期間で最高の効率を持って日本語をマスターすること。

そのような目的で成立している学校だし、生徒もそれを望んでお金を払う「お客さん」である。 

そういうところで「そもそも言語とはなんぞや」とか「日本語で汝は何を成し遂げんと欲するか」なんて聞く教師は非効率的な上に説教が鼻につくので、「クビ」である。 

しかし大学は違う。 

大学では「日本語『で』教える」ことが求められる。

というのが私の意見である。 

別に「大学の方が求められるものが高い」とか「高尚だ」とか、そういうことを言いたいわけではない。 

役割が違うというだけである。 

大学での学びには、たんなる技術や知識だけではなく、思考能力だとか、問題発見能力であるとか、知性の涵養だとか、そういう独りきり、一朝一夕では成し遂げられないような素質の開拓が期待されている。 

すくなくとも私はそれを期待して大学に行ったし、それを期待されているという前提で仕事をしている。

たとえば、大学で経済学を専攻し、語学は民間の言語学校に行って身につけている、という学生は多い。 

先日の新年会でも中国人のL先生と話し込んだことであるが、民間の言語学校ならば、大学2年間かけて合格するような日本語能力試験一級(通称N1、国際的な日本語に関する資格試験の最上級)を半年とか一年でパスさせることも可能である。 

だとすれば、大学における語学教育の意義はどこにあるのか?

大学4年間日本語やその周辺領域のみを学んでN1に合格し卒業した学生が、経済学やら工学やらを学んで大学の外でN1を獲得した学生と渡り合っていくために、どういう教育をすればいいか。

そのためには「日本語『を』教える」だけではなく「日本語『で』教える」ことが必要ではないか。 

「日本語『で』教える」といっても、別に日本語のみを使った直接法で日本語を教えるということではない。 

日本語を学ぶことを通して、言語とは何かとか、コミュニケーションとはどうあるべきかなどについて各自の問題意識を刺激し、育てていくような教育。 

私が言う「日本語『で』教える」が指すものはそういうことである。 

この「を」と「で」に関しては、たぶん教員養成系の学部でよく言われていることである。 

私も大学1年生の時の教育学の講義で「教育とは教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ」のようなことを聞いて「おお、なるほど」と思ったのである。(そのあとに「でも、結局教科書は使わないといけないの?」とも思ったが)

中国の大学では文法や語彙などに関しては中国人の先生が中国語で教えている。 

だからこそ、私のように日本語や日本語教育を専門とはしないネイティブの教師には「日本語『で』教える」余地が大きく残されていると私は思うのだが、いかがだろうか。

もちろん「日本語『を』教える」ことが本務なのは承知の上である。 

すくなくとも、教科書を読ませ、読み上げ、無駄話をし、発音や文法にダメ出ししているだけでも「ネイティブなので」務まっている「先生」は、そのどちらも出来てはいないのではないかと思う。 

そういうのはやっぱり「日本人なら誰でもできる」仕事だと、私は思う。