とある日本語教師の身辺雑記

中国の大学で日本語を教えながら、日常の雑感や出来事を気の向くままに綴ります(最近は麺と猫と自転車が主)。

卒論発表会の雑感

気がついたら6月である。

あっというまに2019年も後半に突入したことになる。

学校は今週が学期第14週目。

17週目に期末試験が行われ、夏休みとなる。

夏休みが待ち遠しいが、もうひと踏ん張りである。

しかし、最近暑い。

今日の最高気温は34度に達している。

だるい。

 

そんな中、先週末に卒業論文の発表会が開かれた。
早いもので、学生さんたちの卒論報告を聞くのも、今年で七回目になる。
私はこれまで3つの大学で卒論指導してきた。 

それらの大学の入学難度は上から下まで幅広かったが、少なくとも卒論に関しては共通して見られる課題がある。
それは、学生さんが核となる「問い」を自分で立てられないということだ。
注を付けないとか、資料不足とか、日本語の問題とか、そういう問題はあとからどうとでも出来る。
しかし、論文の書き手自身が「問い」を持てないという問題は、入学したときから強く意識して取り組まないと、どうしようもない。
ところが、現実的には卒業ぎりぎりまで資格試験や院試のための暗記式学習スタイルが一般的である。
「じゃあ卒論なんか書かせなきゃいいじゃん、どうせ4年間語学しかしてないんだし」と開き直るというのもありなのかもしれない。

このまえとある食事会でタイの大学で日本語を教えていた先生に聞いたところでは、タイの大学日本語学部では卒論なしだとか。 
しかし、中国教育部(日本で言う文科省のようなもの)は、思考能力や論文執筆能力の育成を強く求めている。 

まあ、大学なんだから当たり前だよね。私もそう思う。 
だから2年生の頃から口を酸っぱくして意識づけしようとしたり、自分で「問い」を立てる課題を与えたりしているんだけれども、いくらこっちが「考えるのは大切ですよ」「こうやればいいんですよ」と喚いても、ほとんどの学生は「で、それテストに出るの?」「ふーん、で、それ金になるの?」という観点のみで吟味し、「なんか聞かなくても良さそ」と判断すると聞き流すので、いざ卒論報告会の壇上で教師陣に質問攻めにされて、やっと「ああ、こういうことだったのか」と気づくのが実情だ。
何とかしなきゃと色々やってはいるのだが、学生さんの耳に入らなきゃ(入っても頭と心に届かなきゃ)意味はない。